第4話 フィルターの境界線

日曜日、午前九時。


由貴は鏡の前で、三度目の服の着替えをしていた。白いワンピース、ベージュのニット、デニムジャケットどれもしっくりこない。涼太に「誰もいない場所で、君だけを撮りたい」と言われてから、彼女の心は落ち着かなかった。


(何着ていけばいいんだろう。涼太さんは、どんな私が好きなんだろう……)


由貴はクローゼットの奥から、先月買ったばかりの淡いピンクのブラウスを取り出した。涼太の写真には、よく柔らかい色合いが使われている。それならこれが正解かもしれない。


彼女は着替え終えると、隣の部屋のドアを一瞥した。蒼石は今朝も早くから原稿を書いているはずだ。声をかけようかどうか迷ったが、やめた。説明するのが面倒だったし、何より。


(蒼石には内緒で行くって約束したし……)


由貴は静かに玄関を出た。鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。


待ち合わせ場所は、都心から電車で一時間ほどの郊外の公園だった。平日の午前中ということもあり、人影はまばらだ。由貴が到着すると、涼太は既にベンチに座ってスマホをチェックしていた。


「由貴ちゃん、来たね。そのブラウス、すごく似合ってる。君の肌色に合う柔らかいピンクを選ぶなんて、センスがいい」


「ありがとうございます。涼太さんに合うと思って」


「やっぱり由貴ちゃんは分かってるね。さあ、行こう。今日は俺の秘密のスポットに連れて行くよ」


涼太は由貴の手を軽く引き、公園の奥へと歩き始めた。その手のひらは温かく、由貴は抵抗する間もなくついていった。


秘密のスポットは、公園のさらに奥にある小さな池だった。周りには木々が茂り、都会の喧騒がまるで嘘のように遠くに感じられる。水面には光がきらめき、まるで絵画のような風景が広がっている。


「ここ、すごい……!」


「だろう?君をここに連れてきたかったんだ。

誰にも邪魔されずに、君だけを撮れる場所が」


涼太はカメラを取り出し、由貴に向けた。彼の目は真剣で、その視線に由貴はなぜか少し緊張した。


「由貴ちゃん、池の方を向いて。そう、そのまま。風が髪を揺らしてる、その瞬間を逃したくない」


シャッター音が響く。涼太はすぐに次の構図を探し、由貴に指示を出す。彼の動きは無駄がなく、まるで由貴のことを何年も前から知っているかのようだった。


「由貴ちゃん、昔から思ってたんだけど、君は『完璧な自分』を見せようとしすぎてる気がするんだ」


由貴はその言葉に、少しだけ固まった。


「……え?」


「例えば、君の投稿、いつも角度も表情も完璧だ。それは素晴らしいことだけど、たまには『素』を見せてもいいと思うんだ。そういうのが、一番ファンの心を掴むから」


涼太はカメラを下ろし、由貴の目を真っ直ぐに見つめた。


「蒼石くんは、君の『素』を撮るのが上手いよね。あの彼の写真、正直言って構図は素人っぽいけど、どこか惹かれるものがある。でも、彼はそれを君に見せない。自分のフォルダにしまい込んでるだけだ」


由貴はその言葉に、胸の奥がざわついた。


「……知ってるんですか?蒼石が私の写真をフォルダに保存してること」


「当たり前だよ。君のことをこんなに長く見てきたんだ。彼の行動パターンくらい、全部把握してる」


涼太は笑いながら、もう一度カメラを構えた。


「由貴ちゃん、君はもっと自由になるべきだ。蒼石くんの『詩的な言葉』に縛られる必要はない。君が欲しいのは、もっとストレートな言葉だろう?」


由貴は答えられなかった。なぜなら、彼の言う通りだったから。自分が欲しいのは、まさに涼太がくれるような、わかりやすい称賛の言葉だった。


撮影が終わり、涼太は由貴を駅まで送りながら、さらにある提案をした。


「由貴ちゃん、次の案件だけど、俺の会社で全面サポートすることになったんだ。来月から、本格的にプロモーションを始めるよ。もちろん、写真もキャプションも全部俺が担当する」


「……蒼石は?」


「彼はカメラマンとして残ってもらう。でも、言葉は俺が書く。それでいいだろう?」


由貴は迷いながらも、うなずいた。涼太が言うことなら間違いないと思えた。彼の方が蒼石よりも、よほど由貴のことを理解している。


その夜、由貴が帰宅すると、玄関に蒼石の靴があった。彼は部屋にいるはずだ。由貴はそのドアの前で一瞬立ち止まったが、やっぱり声をかけずに自分の部屋に入った。


スマホを開くと、涼太から「今日の写真、今から編集するね。楽しみにしてて」とメッセージが来ていた。由貴は「ありがとうございます」と返信し、そのままベッドに倒れ込んだ。


その時だった。彼女は自分のスマホをベッドに置きっぱなしにしていたことに気づいた。涼太のDMを蒼石に見られたらどうしよう。彼女は慌ててスマホを確認したが、特に変わった様子はない。


(見られてない、よな……)


由貴は安心しながらも、なぜか蒼石の部屋の様子が気になった。薄い壁の向こうからは、ペンが走る音が聞こえてくる。彼はまた原稿を書いている。


由貴はその音を聞きながら、自分でも分からない複雑な気持ちになった。


翌朝、由貴が起きると、蒼石の部屋のドアは開いていた。彼は机の前に座り、カメラのレンズを丁寧に拭いている。由貴はその背中に声をかけた。


「蒼石、今日は涼太さんと撮影だから、あなたは休んでていいよ」


蒼石は手を止めずに、「……そうか」とだけ言った。


「……何か言いたいこと、ある?」


「……いや」


「そう。じゃあ、行ってくる」


由貴は振り返らずに玄関に向かった。背中に蒼石の視線を感じた気がしたが、確認する勇気はなかった。


その日、涼太との撮影はスタジオで行われた。プロ仕様の照明が並び、由貴はいつものように涼太の指示に従ってポーズを取る。彼の言葉は相変わらず甘く、具体的で、由貴の心を満たした。


「由貴ちゃん、その角度、完璧だよ。君は本当にカメラの前で輝く才能がある」


「……ありがとうございます」


「でも、君はまだ『本当の自分』を見せられてない。蒼石くんのことは気にしなくていい。君が輝けば、自然と彼も君の本当の価値に気づくはずだ」


由貴はその言葉に、少しだけ引っかかりを覚えた。


(蒼石が、私の本当の価値に気づいてない……?)


考えたこともなかった。彼はいつも由貴の「素」を撮っている。それが本当の価値だと信じているのだと、由貴はなんとなく感じていた。でも涼太はそれを「気づいてない」と言う。


どちらが正しいのか、由貴には分からなかった。


その夜、由貴が帰宅すると、蒼石の部屋のドアは閉まっていた。彼女は何気なくドアの前を通りかかり、中から微かな声が聞こえることに気づいた。


「……俺の言葉が届かないなら、それでもいい」


それは、蒼石の独り言だった。由貴は立ち止まり、息を殺して耳を澄ませた。


「……彼女が選ぶのは、彼女自身だ。俺が口を出すことじゃない」


続きがあった。由貴はその言葉の意味を考えようとしたが、蒼石の声はそこで途切れた。


彼女はそのまま自分の部屋に戻り、スマホを開いた。涼太から新しい撮影のスケジュールが送られてきている。来週は三日連続での撮影だ。由貴はそれに「OK」を返しながら、なぜか蒼石の独り言が頭から離れなかった。


――彼女が選ぶのは、彼女自身だ。俺が口を出すことじゃない。


(あなたは、私に選んでほしいと思ってないの?)


由貴はその疑問を、涼太からのメッセージで打ち消そうとした。彼女のスマホには、涼太からの「今日も最高だったよ。由貴ちゃんは本当に美しい」という言葉が表示されている。


そうだ。私は綺麗だ。誰かにそう言ってもらわないと、確信が持てないけれど。


その夜、由貴はいつもより早く眠りについた。夢の中で、彼女は誰かに「綺麗」と繰り返し言われていた。その声は涼太のものだったのか、それとも蒼石のものだったのか、目が覚めても思い出せなかった。


隣の部屋では、蒼石が一人、由貴の「素の色味」を調整する作業を続けている。彼のPCには、由貴が「加工しろ」と指示した写真と、彼が「このままでいい」と保存した写真が並んでいた。


彼はその差を何度も何度も見比べながら、静かにため息をついた。


そして、原稿用紙に新しい一文を書き加える。


『彼女はフィルター越しの自分を愛している。しかし本当の美しさは、フィルターの向こう側にある。それに気づくのは、いつになるのだろう』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る