第2話 詩人カメラマンのキャプション
あの日から、由貴のスマホは絶え間なく震え続けていた。
涼太が撮影した写真は、最終的に三千四百の「いいね」を記録した。由貴のアカウント史上、最高の数字だった。フォロワーも一晩で二百人増え、DMには新たな案件のオファーが三件も届いている。
由貴はそのすべてを、まるで呼吸をするように確認した。通知が来るたびに指が動き、数字が増えるたびに心臓が跳ねる。彼女は鏡の前で、自分の顔をまじまじと見つめた。涼太の写真の中の自分は、自分が思っている以上に輝いて見えた。
(私、こんな風に撮ってもらえるんだ……)
その日、由貴は蒼石の部屋に朝一番で転がり込んだ。彼は既に机に向かって原稿用紙に何かを書いている。由貴はその背中にスマホを突きつけながら、昨夜の興奮をまくしたてた。
「見た?三千超えたよ!涼太さんってすごくない? あの構図、どうやったら思いつくんだろう。しかもキャプションがさ、『今日の彼女は過去最高に輝いている』って書いてあって、具体的なのにロマンチックで、すごくない?」
蒼石はペンを止めずに、「……そうか」とだけ言った。
「そうか、だけ?もっと驚いてよ!私、これでまた一つ階段上がったんだからね!」
「……おめでとう」
「それも淡白すぎ!ねえ、今日の撮影、涼太さんがまた撮ってくれるって言ってるんだけど、蒼石も来る?」
蒼石はようやくペンを置き、振り返った。彼の目はいつもと同じで、何を考えているのか読めない。由貴はその無表情に、なぜか少しだけ苛立ちを覚えた。
「……行く」
「行くって、嫌々じゃないよね?ちゃんと撮ってよ。涼太さんレベルの写真が撮れるわけないけど、せめて普通よりはマシなのをお願い」
蒼石は何も言わず、カメラバッグを手に取った。由貴はその背中を見送りながら、小さな違和感を抱えた。
なんで、この人はいつもそうなんだろう。喜んでくれてもいいのに。
その日の撮影は、涼太が手配したスタジオで行われた。プロ仕様の照明が並び、カメラマンが複数人いる。由貴は少し緊張しながらも、涼太の明るい声にすぐにリラックスさせられた。
「由貴ちゃん、こっち向いて。そう、その角度、最高だよ。左目の下の泣きぼくろ、ちゃんと見せてね」
由貴は指示通りに顔を向けながら、ふと疑問が浮かんだ。
「涼太さん、どうして私の泣きぼくろ知ってるんですか?私、自分でも気づいてなかったんですけど」
涼太はカメラを構えたまま、優しく笑った。
「由貴ちゃんのデビュー当時のプロフィール写真、覚えてる?君は左向きで写ってたけど、その時に少しだけ見えてたんだ。それ以来、ずっとチェックしてる。君のチャームポイントはそこだって、ずっと思ってた」
由貴はその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
蒼石は、私の泣きぼくろなんて、一度も言ったことない。
彼女は無意識に、スタジオの隅で黙ってカメラを構える蒼石を探した。彼はいつも通り、淡々とシャッターを切っている。由貴が涼太と楽しそうに話していても、彼の表情は一切変わらない。
(まるで、ただの仕事みたいに……)
撮影が終わり、由貴が涼太に「キャプションも考えてもらえますか?」と頼むと、涼太は即座にスマホを取り出して、その場で文章を書き始めた。
『今日の由貴ちゃんは、一輪の花が朝日に照らされるように、誰よりも美しかった。特に彼女の左目の下には、誰も気づかない小さな星が宿っている。それが彼女の本当の輝きだ。』
由貴はその文章を読んで、息を呑んだ。
この人、私のことをちゃんと見てる。数字だけじゃなくて、細かいところまで。
彼女はそのキャプションをそのまま採用し、投稿ボタンを押した。すぐに通知が次々と届き始める。
その夜、由貴は蒼石に涼太のキャプションを見せた。
「ねえ、これ。涼太さんが書いてくれたんだけど、すごくいいと思わない? 具体的で、ロマンチックで、バズる言葉がちゃんと入ってる」
蒼石は画面を一瞥し、短く「……そうだな」とだけ言った。
「そうだな、だけ?あなたのキャプションって、いつも難しすぎるんだよ。詩的すぎて何言ってるか分かんないし、バズる要素が全然ない」
「……俺のキャプションは、俺の言葉だ」
「それが問題なんだよ!私のアカウントなんだから、バズる言葉を使ってよ!例えば『今日も綺麗』とか『最高』とか、そういうわかりやすいの!」
蒼石はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……『綺麗』って言葉は、君にはもう十分すぎるほど届いていると思う」
「何それ? 意味わかんない!」
由貴はその言葉の意味を考えようともせず、スマホを握りしめて自分の部屋に戻った。彼女の頭の中は、涼太の言葉と、蒼石の無表情な顔でいっぱいだった。
(なんで、あの人はあんなに冷たいんだろう。私がどれだけ彼のことを頼りにしてるか、少しは分かってくれてもいいのに。)
翌日、由貴が蒼石に「今日のキャプション、これでお願い」と渡したのは、自分で書いた一文だった。
『今日も綺麗です。この服、新しく買いました。みんな見てね。』
蒼石はそれを見て、一瞬だけ眉を動かした。由貴はその仕草を見逃さなかった。
「……何?何か言いたいことがあるの?」
「……いや。これでいい」
「でしょ?これが正解なんだよ。あなたの難しい詩みたいなのより、ずっとわかりやすいし、バズる」
蒼石はそのキャプションをコピーし、由貴のアカウントに投稿した。由貴はその様子を満足げに見つめながら、心の中で呟いた。
これでいいんだ。私が求めているのは、こういう言葉なんだから。
その日、涼太がスタジオに来たとき、彼は由貴に一つの提案を持ちかけた。
「由貴ちゃん、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「蒼石くんのキャプション、君はどう思う?」
由貴は一瞬言葉に詰まった。涼太はその反応を見逃さず、さらに畳みかける。
「俺の印象なんだけど、彼の言葉は確かに文学的で美しい。でも、それは君のアカウントにとって最適なのかな? SNSって、もっとストレートな言葉の方が響くんだよね。君の魅力を、もっと大勢に伝えられる言葉があるはずだ」
「……でも、蒼石はああいう書き方しかできないんです」
「それなら、俺が専属で言葉を担当しようか?」
涼太は笑顔で言った。その笑顔は完璧で、由貴の心にすんなりと入り込んだ。
「……専属、ですか?」
「そう。君は君の魅力を発揮することに集中して。言葉は俺が全部考える。そうすれば、今の三倍は数字が伸びるよ」
由貴はその言葉に、心臓が跳ねるのを感じた。三倍。今の三倍。フォロワーが、収入が、知名度が、すべて三倍になるかもしれない。
「……でも、蒼石が」
「彼はカメラマンとして残ればいい。俺は言葉を担当する。それでWin-Winだよ」
由貴は迷った。蒼石に相談すべきだろうか。でも、彼に相談したら、あの無表情のまま「好きにすればいい」としか言わないに決まっている。それなら、自分で決めてしまった方が早い。
「……ちょっと、考えさせてください」
「もちろん。でも由貴ちゃん、君の時間は有限だよ。逃さない方がいいチャンスかもしれない」
涼太はそう言い残してスタジオを去った。その背中を見送りながら、由貴はスマホの通知を確認した。涼太が撮影した昨日の写真は、既に四千を超えている。
彼女は蒼石にメッセージを送った。
『涼太さんがキャプション担当してくれるって言ってきた。どう思う?』
既読がついた。そして、返信が来る。
『……好きにすればいい』
由貴はその返信を見て、思わずスマホを握りしめた。
やっぱり、この人は私のこと、どうでもいいんだ。
彼女はその怒りを飲み込みながら、涼太に「考えたんですけど、お願いします」と返信した。
涼太からはすぐに「最高の判断だよ、由貴ちゃん」と返事が来た。
その夜、由貴はSNSをチェックしながら、ふと蒼石が書いた最後のキャプションを読み返した。彼が書いた詩的な文章には、こんな一節があった。
『彼女の笑顔は、夕焼けが海に溶けるように、優しくて少し寂しい。誰も気づかないけれど、その寂しさこそが彼女の本当の美しさだ。』
由貴はその一文を、何度も何度も読み返した。
夕焼けが海に溶けるように……誰も気づかない寂しさ……
(これ、私のこと?)
彼女はその言葉の意味を考えようとしたが、すぐにスマホを置いた。明日は涼太と新しい撮影の打ち合わせがある。それどころじゃない。
由貴は布団の中に潜り込み、目を閉じた。でも、頭のどこかで、蒼石の詩的な一文が繰り返し浮かんでは消えた。
(誰も気づかないけれど……その寂しさこそが……)
彼女はその言葉を、眠りの中に追いやろうとしたが、うまくいかなかった。
隣の部屋では、蒼石がPCの前に座っていた。彼の画面には、由貴が「使えない」と断った詩的なキャプションが、十数個保存されている。そのどれもが、彼女の「何気ない一瞬」を切り取ったものだった。
彼はマウスをクリックし、そのフォルダを閉じた。そして、新しい原稿用紙にペンを走らせ始める。
それは、誰にも読ませるつもりのない、ただ一人の女性だけを描いた小説だった。
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