隣の君が書いた、僕だけが読めない言葉

TroTro

第1話 「いいね」が心臓の代わり

午前六時。由貴のスマホが震えた。


画面に表示されたのは、昨夜投稿したオフショットの「いいね」の数だった。三十分前の確認から、たったの二十三増えている。由貴は布団の中で身を丸めながら、その数字を指でなぞった。


――四百七十二。


たったの四百七十二。昨日の動画は一時間で千を超えたのに、今日の写真は伸びが悪い。由貴は唇を噛みしめ、投稿した写真を拡大する。髪の毛が一束、顔に張り付いているのが気になった。この写真、まだ加工が甘かったかもしれない。


(もっと明るいフィルターにすれば良かった。それか、蒼石に撮ってもらえば……)


考えるまでもなく、由貴は布団を蹴り飛ばして起き上がった。隣の部屋のドアをノックもしないで開ける。そこはいつものように薄暗く、カーテンの隙間から朝日が細長く差し込んでいるだけだった。


「蒼石、起きてる?」


返事はない。ベッドの上で、蒼石は仰向けに寝ていた。黒いTシャツに黒いスウェット。寝ているときでさえ無表情だ。由貴は彼の布団を引っぺがし、その胸の上に自分のスマホを置いた。


「この写真、なんかイマイチなんだよね。撮り直して」


蒼石は目を開けた。瞳はいつもより二秒ほど遅れて由貴を捉える。彼はスマホを手に取り、写真を一瞥した。そして、何も言わずに起き上がり、壁際のカメラバッグから愛用のデジタル一眼を取り出した。


「いま、撮る」


「ちょっと待って、寝癖直してくる」


由貴は自分の部屋に戻り、鏡の前で髪を整えようとして、ふと手を止めた。鏡の中の自分は、化粧もしていない、まさに起きたままの顔だった。目の下にはうっすらとくまがあり、口元には寝ぼけた弛みが残っている。


――これ、撮ってもらうの、ちょっと恥ずかしいかも。


そう思いながらも、由貴は蒼石の部屋に戻った。彼は既にカメラを構え、ベッドの端に腰掛けている。由貴はわざと不機嫌そうな顔を作って、彼の前に立った。


「綺麗に撮ってよ。絶対加工するからね」


蒼石は無言でファインダーを覗いた。シャッター音が一度、部屋に響く。それきりだった。


「……もういいの?」


「うん」


蒼石はカメラを下ろし、データをスマホに転送し始めた。由貴はその横で、彼が撮った写真を覗き込んだ。画面に映っていたのは、先ほど鏡で見た自分の顔とほとんど同じものだった。くまも寝癖も、そのまま写っている。


「ちょっと! これ、加工してないじゃん!」


「……撮ったままが一番いいと思う」


「よくないよ! 私、こんな顔でインスタに上げるわけにいかないでしょ!」


由貴は蒼石のスマホを奪い取り、自分でフィルターをかけた。明るさを上げ、コントラストを調整し、くまを消す。そうやって数分間弄ってから、完成した画像を彼に見せた。


「これでしょ。これが正解」


蒼石は画像を一瞥し、「……そうか」とだけ言った。由貴はその無関心な返事に、むっとしながらも、そのまま投稿ボタンを押した。スマホが震え、通知が次々と届き始める。


由貴の心臓は、それと同時に跳ね始めた。


よし、伸びろ。もっと伸びろ。


彼女はベッドに座り込み、通知の数を指で数えた。一分で七、二分で二十一、五分で五十八。悪くない。やっぱり加工は正解だった。由貴はスマホを胸に抱え、満足げにため息をついた。


そのとき、蒼石が彼女の前にコップを差し出した。白い湯気が立っている。ほうじ茶の匂いがした。


「……何? お茶?」


「飲め」


「どうして?」


「喉、乾いてる」


由貴は口を開きかけて、閉じた。確かに喉は乾いていた。自分では気づかなかったけれど、彼は当たり前のようにそれを知っている。由貴はコップを受け取り、一口啜った。熱くもなく冷たくもなく、ちょうどいい温度だった。


「……ありがと」


「うん」


蒼石はそれだけ言うと、カメラのレンズを拭き始めた。由貴は彼の横顔を眺めながら、ふと思った。


――この人、私の好きなものも嫌いなものも、全部知ってるくせに、どうして「綺麗」の一言だけは言ってくれないんだろう。


これまでの人生で、由貴は数えきれないほど

「綺麗」と言われてきた。それこそ、毎日のように。美容院でも、街中でも、SNSのコメント欄でも。でも蒼石だけは、絶対にその言葉を口にしない。彼の代わりは「いい顔だ」とか「そのままでいい」とか、いつも曖昧な言葉ばかりだ。


(私、そんなに綺麗じゃないのかな……)


いや、それはない。由貴は自分自身の顔を一番よく知っている。彼女は美人だ。誰がどう見ても美人だ。それを自覚していないインフルエンサーなんていない。それなのに、蒼石だけは認めてくれない。


由貴はその不満を飲み込みながら、コップの中のほうじ茶を全部飲み干した。


その日の午後、由貴のスマホに一通のDMが届いた。見覚えのないアカウントからのメッセージだった。


『早乙女由貴様

突然のご連絡失礼いたします。弊社主催のイベントにゲスト出演いただけませんでしょうか。

詳細は追ってご連絡いたしますが、ぜひ一度お話しさせていただきたく』


由貴はその文章を三度読み返した。送り主は、彼女が以前から憧れていた某有名ブランドの公式アカウントだった。


「――え、マジで!?」


由貴はスマホを握りしめ、隣の部屋に駆け込んだ。蒼石は机に向かって何かを書いているところだった。由貴は彼の背中にスマホを突きつける。


「蒼石、見て! これ! あのブランドから来た!」


蒼石は振り返り、画面を一瞥した。

彼は「……おめでとう」とだけ言った。


「おめでとうだけ!? もっと驚いてよ! これ、私、もしかしたら一気に有名になるかもしれないんだからね!」


「……そうだな」


「ねえ、イベントの日、絶対撮影についてきてよ。いつもより三倍は綺麗に撮って。絶対だよ?」


蒼石はしばらく黙ったあと、手に持っていたペンを置いた。そして、カメラのレンズを拭き始める。


「……わかった」


その短い返事に、由貴はなぜか少しだけ安心した。彼はいつもそうだ。言葉は少ないけれど、約束は絶対に守る。由貴はそれをよく知っていた。


その夜、由貴は興奮のあまり眠れずにいた。

イベントのことを考え、何を着ていこうか、どんなヘアメイクにしようか、どうやって話せば一番注目されるだろうか――そんなことばかりが頭を巡る。


ふと、彼女はスマホを手に取り、蒼石にメッセージを送った。


『ねえ、明日のイベント、緊張してる。大丈夫かな?』


送信から三秒後、既読がついた。そして、返信が来た。


『大丈夫だ』


それだけだった。由貴はその短い文面を見つめながら、笑った。大丈夫だ、の三文字で、彼はいつも全てを言い終えてしまう。


(本当に、口下手なんだから。)


由貴はスマホを枕元に置き、目を閉じた。明日のことを考えながらも、彼女の頭のどこかで、一つの小さな引っかかりが残っていた。


――今日の投稿、結局「いいね」は七百六十で止まった。蒼石の写真じゃなかったから、少しだけ伸びが悪かった気がする。


彼女はその考えを、眠気の中に追いやった。


*****


翌日。イベント会場は、由貴の想像以上に華やかだった。シャンデリアの光がきらめき、スタッフたちが行き交う。由貴はドレスアップした自分自身をガラス越しに確認しながら、内心で興奮を抑えていた。


――よし、今日は絶対に注目を浴びる。


しかし、いざ会場に入ると、彼女は予想以上に戸惑った。思っていたよりも多くの人がいて、カメラがたくさん向けられている。自分がどう振る舞えばいいのか、急に分からなくなった。


由貴は無意識に、会場の隅でカメラを構えている蒼石を探した。彼は相変わらずの無表情で、レンズを由貴に向けていた。その姿を見ただけで、由貴は少しだけ落ち着いた。


そのときだった。


「由貴ちゃん! やっと会えたね!」


聞きなれない声が、由貴の耳に飛び込んできた。振り返ると、そこに一人の男性が立っている。スーツをスマートに着こなし、口元には完璧な笑みを浮かべた、三十歳前後の男だった。


「え……?」


「俺、響涼太。ファンクラブの会員番号、一番なんだよ。由貴ちゃんのデビュー当時からずっと追いかけてる」


由貴はその男の顔を見つめた。記憶にない。しかし彼の口調には、確かな確信が込められていた。


「……ファンクラブ、一番なんですか?」


「そう。由貴ちゃんの古参ファンってわけ。あ、でも今日はファンとしてじゃなくて、イベントの運営サイドとして呼ばれてるんだ」


涼太はそう言って、自分の名刺を差し出した。そこには『響プロモーション 代表取締役』と書かれている。


「あなたが……?」


「由貴ちゃんの可能性を、もっと引き出してあげたいと思ってね」


涼太は由貴の耳元に顔を寄せ、ささやくように言った。


「今の君の写真、もったいないよ。蒼石くんの撮り方は確かに詩的だけど、バズりとはちょっと方向性が違う。俺が撮ったら、三倍は伸びる自信がある」


由貴はその言葉に、一瞬だけ心臓が跳ねた。


――三倍。今の三倍。


彼女は無意識に、会場の隅でカメラを構えたまま動かない蒼石を見た。彼は相変わらず、由貴が誰と話していようと、淡々とシャッターを切っている。


――蒼石は、私の「今」しか撮らない。でも涼太さんは「過去」も「未来」も見てくれるって言った。


由貴はその考えを振り払うように、涼太に向き直った。


「……ちょっとだけ、撮ってもらってもいいですか?」


涼太は完璧な笑顔で答えた。


「もちろん。君を一番綺麗に撮るのは、俺だよ」


そのとき、遠くでシャッター音が一度、鳴った。蒼石が撮ったのか、それとも別のカメラマンか。由貴には分からなかった。


ただ、その日の夜。


由貴が家に帰ってSNSを開いたとき、涼太が撮影した写真がすでに投稿されていることに気づいた。そこには、会場でドレスを着て微笑む由貴の姿があった。構図も、光の当て方も、何もかもがプロフェッショナルだった。


そして、その写真は――


たった三十分で、「いいね」が千を超えていた。


由貴はスマホを握りしめ、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。すぐに、蒼石にメッセージを送る。


『見た? 涼太さんの写真、すごくバズってるよ!』


既読はついたが、返信は一時間経っても来なかった。


由貴はその返信のなさを気にしながらも、コメント欄に次々と届く称賛の言葉を読み続けた。画面の光が、彼女の顔を青白く照らしている。


――これだ。私が欲しかったのは、これだ。


その夜、由貴は蒼石からの返信がないまま、興奮と疲れで眠りに落ちた。


彼女のスマホの画面には、涼太が撮影した写真と、千二百の「いいね」が浮かんでいる。


そして、由貴の隣の部屋では――


蒼石が一晩中、由貴の「素の顔」を整理するために、PCのフォルダを開けたまま、小さなため息をついていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る