第40話 忘れてしまうなんてできない
家に帰って、俺は久しぶりに皐月さんの部屋のドアを開けた。
あの日のまま、なに一つ変わらない。
椅子には彼がよく着ていたグレーのカーディガンがかけられていた。
それを手に取り深く息を吸い込むと、少しだけ皐月さんの匂いがほのかに薫る。
途端に目頭がじゅんと熱を帯びるのを感じ、ふう、とため息をついて部屋を見渡した。
本棚に新しい本が増えている。
ふせんが貼られた石垣島のガイドブック。
俺が行きたいって言ったからだ。
料理の本。
「僕も涼太になにか作ってあげたい」
はにかみながらそう言っていた。
どっちの色がいいか聞かれて選んだ、ハンガーラックにかけられた白いTシャツ。
「皐月さん……」
このままもう二度と会えなくなって。
顔も声も思い出せなくなって。
忘れてしまうなんて——そんなの、嫌だ。
彼宛に届いてそのままにしていた段ボールを開封した。
中身は京都や愛知の銘菓だった。
「なんでわざわざ……?」
そこで俺は竹原からのアドバイスを思い出した。
『スマホとか、パソコンの検索履歴調べてみたら?生きてれば、なんかしら痕跡は残るだろ』
パソコンを起動させて、ブックマークを確認した。JR東日本のチケット購入サイトが目に止まり、申し込み履歴をクリックする。
7月〇日、6月〇日、6月〇日……
「全部、松本行きの電車を予約してる……?」
この日は、皐月さんが前世の記憶を消す方法を調べるために外出した日付だ。
京都や筑波に行ったというのは嘘なんだ。
俺に知られてからはわざわざ事前に土産まで購入して偽装してる。
そうまでして隠したいものなんか、一つしかない。
「長野県……滝……!」
あの場所が、今もまだ残っているなら。
はやる心を抑えて文字を入力し、パソコンの検索画像を食い入るように見つめる。
その中で、ある風景が目に止まった。
「……っ!本当に、あるのか」
俺たちが前世で最後にいた場所。
クリックすると、記憶の中の雪厳の滝がスクリーンいっぱいに広がった。
(ここに皐月さんが……御影がいるのかもしれない)
♢♢♢
次の休みにレンタカーを借りて松本まで車を走らせた。
会ってなんて言えばいいんだろう。
自分から拒絶しておいて、虫の良い話かもしれない。
でも、このままさよならだなんて絶対に嫌だ。
ハンドルをキツく握り、アクセルを踏み込んだ。
松本からさらに車を走らせること一時間。
今は観光名所になっているようで、近くには宿泊場所がたくさんあった。家族連れの観光客とすれ違い、思っていたより人の多いことに驚く。
(こんなところに本当にいるのかな......この令和に狐耳生やした和服の成人男性なんかいたらすぐにSNSにあげられそうだけど)
駐車場から、滝までの道を歩いた。
都内よりも少し爽やかさをはらんだ日差しと風のおかげで、気分は悪く無かった。
突き抜けるような真っ青な空に、光に透けて色濃く鮮やかな緑の葉。白樺の木々を抜けるにつれて、ごうごうと力強く流れる音が聞こえてきた。
傾斜のある階段を下りると、一気に視界が開ける。
目の前に広がったのは、記憶の中の滝とほとんど変わらない景色だ。
「凄い……」
前世の記憶と同じ場所に、今自分が立っている。
初めて来た場所なのに、懐かしさで胸が満たされて涙が込み上げてきた。
でも、そこに皐月さんの姿はなかった。
♢♢♢
「はあ、そう簡単には見つからない、か……」
滝を眺めながら昼食のおにぎりを頬張った。
あれから一時間ほどあたりをうろついてみたが、皐月さんは見つからない。
この場所にもいないんだったら、もう本当に打つ手がない。
(御影は、何百年もこうしていろんな場所を探していたのかな)
紫水の生まれ変わりを探すあてのない旅を、たった一人で。
その孤独の重さに、肌がぞわりと毛羽立った。
自分なら到底耐えられない。
項垂れて、おにぎりの包みをクシャリと握りしめた。
「皐月さん……会いたい」
滝の音に飲み込まれるようにかき消された俺の声に、返事があった。
りぃん、とひと際高い涼やかな音色。
はっとして顔を上げれば、川の中央に御影が立っていた。
記憶の中の、子どもの頃の姿で。
りぃん、りぃん、と俺を呼ぶように、鈴の音が繰り返し鳴り響く。
いつの間にか周辺にいた観光客は姿を消し、川には俺と透き通る小さな御影の二人だけだった。
「御影……?」
川の水面に御影の小さな足が触れると、触れた部分がパキ、と凍り付き、丸い足場のようなものができた。
御影が歩く度に足場はできていく。
川の中央で御影はこちらを振り返り、黙ってじっと俺を見た。
りぃん。
また、鈴の音が聞こえる。
「ついてこいって、言ってるのか?」
凍り付いた足場を恐る恐る踏むと、しっかりとした強度を感じる。
意を決して、俺は御影の後についていった。
流れる滝に近付き、ドドドド、という凄まじい音が胸に響く。
水飛沫が激しく飛び散って毛先を濡らした。
御影は滝に向かって両手を突き出すと、まるでカーテンを開くような手つきで滝を二つに裂いた。
滝の向こう側にはちょうど人一人が通り抜けできる穴が、ぽっかりと開いている。
「……ここ、入るのか?」
御影はこくん、と頷いた。
もしかして、ここに皐月さんがいるのかもしれない。
未知の領域に踏み出す恐怖が、足をすくませる。
俺は両頬をばちん、とはたいて気合をいれた。
「よし、行くぞ!」
♢♢♢
中に入ると、そこは天井がドーム状になった鍾乳洞だ。ところどころ小さな滝が湧いていて、流水音が反響して聞こえる。
浅い水辺を抜けると、苔の生えた岩場に出た。
滑りそうな足裏に力を入れ、転ばないよう注意して進んでいく。
いつの間にか小さな御影の姿は消えていて、薄暗い洞窟の中に一人だった。
スマホのライトをつけると、中は想像していたよりも奥に広がっていて、細い道が続いていた。
ごくり、と生唾を飲み込む。
足元を照らし、湿り気のある重い空気の中を進んでいく。
洞窟内は、水を含んだ土と、濃く煮詰めた花の蜜のような匂いがした。
(皐月さんからしたのは、ここの匂いだったんだ)
いつかの日に感じた、違和感の正体。
いつもと違う匂いは、この場所だったのだ。
何本も曲がりくねった道の果てで、広い空間に出た。
地面が青や緑に燐光して、天井からは星空のような無数の光が青白く発光していた。
「凄……」
自然の美しさに圧倒されていると、奥の大きな岩場に影が見えた。
スマホのライトを向けて目を凝らす。
糸が流れるような白銀の長い髪と、だらりと力無く垂れ下がった複数の尾。
「……さつき、さん?」
そこには、青白い顔をした皐月さんが倒れていた。
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