第41話 長い旅路
一人でこの洞窟に閉じこもって、もう何日が経っただろう。かつて妖狐の産屋だったこの場所には、今でも妖気が満ちている。
細く息を吐き出し、神経を研ぎ澄ませて両の掌を上に向けた。金色の糸を編むように妖力を織り上げていく。
均等に力を注ぎ、細い光を撚り合わせ、慎重に印を構えるが、精彩を欠いて途中でぷつりと切れてしまった。
「また失敗か……」
何度目の失敗なのか、途中で数えることも放棄した。
せめて最後に、涼太の前世と僕に関する記憶を消してやりたい。
涼太がこれから普通に生きていけるように。
それが僕にできる、最後の贈り物だ。
でも、記憶というものは地層のように幾重にも積み重なっていて、最下層の前世の記憶だけを消すという妖術は何度試してもうまくいかなかった。
僕は失敗ばかりだ。
力を使いすぎたせいか、眩暈がして産屋の岩場に横たわった。
人の食事は必要ないはずなのに、どうしてだか空腹を感じる。
体は芯まで冷え切って、もう力の入らない指先で涼太に貰った御守りを握りしめた。
ああ、スマホを置いてこなければよかった。あれがあれば、写真の中の涼太に会えるのに。
嫌だ。
消えたくない。
忘れられたくない。
もっと、涼太と生きたい。
「……会いたい」
涙が頬を滑り、岩に染み込んでいく。
そのままゆっくりと瞼は閉ざされた。
♢♢♢
八百年。
気が遠くなるような長い年月を生き抜いた。
紫水の生まれ変わりに会うためだけに。
何かを望むつもりはなかった。
一目会えたなら、それでよかった。
人が住む場所なら、日本各地どこへでも行った。
近代に近付くにつれて交通の便は良くなり、情報は津波のように押し寄せ、世界はあまりにも広大なことを知った。
戦や災害が起きて大勢の人間が死ぬ度に、「もしもこの中に紫水の生まれ変わりがいたら」と何度も気が狂いそうになった。
紫水、逢いたい。
どこにいるんだ。
返事をしてくれ。
何度鈴を鳴らしても、返事が返ってくることはなかった。
俺を許せないから、会いに来てくれないのか?
あと何十年、何百年待てば許してもらえる?
いっそ正気を失えたなら、どんなに楽だっただろうか。
初めは胸に抱いていた希望も、百年を終えるごとにいつしか鉛のように重たくなって胸の奥で燻った。
あまりにも、人間の数が多すぎる。
海の中で、たった一滴の雫を探すようなものだ。
そのうちに思い出は呪いに変わり、紫水への感情を取り出すことで、かろうじて自分の心を守った。
涼やかだった音色は徐々に失われ、ついに何の音も聞こえなくなった。
街に出て人間が群れているのを見るたびに、自分と紫水を重ねた。
人間の文化に触れるたびに、紫水とやりたいことが増えていった。
妄執に憑りつかれた、未練がましい亡者だ。
次第に生まれ変わりを探すことも辞め、ただ無意味に生を過ごすようになった。
そして皐月環という名で生きた九度目の生。
涼太に出会った。
♢♢♢
冬が終わり、もう何度目か分からない春が来る。
まだ肌寒さが残る三月の風が、部屋のカーテンを揺らしていた。
なぜまだ僕は生きているのだろう。
どれだけ待っても、紫水の生まれ変わりに会うことはない。
もう、彼の顔も声も、上手く思い出せなくなっていた。
唯一覚えているのは、千里香の匂いだけ。
ベランダから見える風景を眺めた。
家の数。ビルの数。街を行き交う人の数。
千軒。
一万棟。
一億人。
数えきれないほど、数えた。
これだけたくさんの人がいるのに、僕は一人だ。きっとこの先も、ずっと。
すると、インターホンの音が鳴った。
「はい」
「こんにちは。昨日隣に引っ越してきました、桃園です。ご挨拶に伺いました」
扉を開いた瞬間、感じたことのない衝撃が胸を貫いた。
心臓が、砕けそうなほどに震えている。
紫水の顔も声も朧気なのに、なぜだか目の前のこの子が紫水なのだと、魂が叫んでいた。
彼はピシリと岩のように固まった。
様子のおかしさが気になって声をかければ、「これ、つまらないものですが」と手土産を手渡し、すぐに立ち去ろうとした。
もう少しだけ、話がしたい。
焦った僕は、思わず彼を引き留めていた。
「すみません、初対面の方にこんなことを言うのは大変不躾だと思うんですが……助けてください」
台所で死んでいた黒い虫を、彼は嫌な顔一つせず捨ててくれた。
優しい子なのだ。紫水みたいに。
当たり障りのない話をして、「これからもよろしく」と握手を交わした。
自分の手よりも一回り小さなその手の感触に、胸の奥がじわりと熱くなる。
隣人なら、これからも会う機会はあるだろう。
少しずつ仲良くなれたら。
——友人になれたら。
一目会えればいいと思っていただけだったのに、もう欲がでた。
それからすぐにあの事故があって、なんの因果か僕らは一緒に生活を送ることになった。
隣の部屋に、ずっと探していた紫水の生まれ変わりがいる。
彼の気配を感じると眠れないほどに嬉しくて、長い間止まっていた心臓が再び鼓動を始めたような気がした。
彼には前世の記憶はあるのだろうか。
——少しでも、
反応を見るつもりで前世の話をすれば、挙動不審な行動となって返ってきた。
どうやら彼は嘘が上手くないらしい。
どこまで覚えているのだろう。
彼の様子を見るに、恐らく最期の方の記憶は思い出せていないのだろう。
もし記憶があるのなら、僕のそばにいたりしない。
紫水は、僕を酷く恨んでいるだろうから。
この生活は、涼太が紫水の最期の記憶を思い出すまでの間の夢だ。
そう分かっていたのに、僕は何も知らない振りをして彼のそばにいることを選んだ。
少しでも長く一緒に過ごしたかった。
いつか全てが壊れてしまうのだとしても。
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