第37話 前世ー百鬼夜行ー
次の日、紫水に呼ばれて雪厳の滝へ向かった。
竹笛を短く三回。
これが俺たちの合図だった。
新月を越えてなぜ生きてるのだろう、と不思議に思っているだろう。
早く安心させてやりたい。
その日の紫水は酷く顔色が悪く、表情を強張らせていた。
「……昨晩は託宣の日だったのに、なにも起こらなかったんだ」
言葉とは裏腹に、喜びは一欠片も見当たらなかった。
「託宣が間違っていたんじゃないか。よかったよ、もう紫水が死ぬことはない」
「でも、贄の痣は消えていない。それに……それに、昨日から山にいったきり弟が帰らないんだ」
心臓がドクンと跳ねた。
——まさか。
「なあ、御影……
遺体は燃やした。
何があったかなんて、誰にも分かりはしない。
「知らないよ……弟さん、心配だね」
初めて紫水に嘘をついた。
その瞬間、紫水の瞳から光が消えた。
そして懐に手を差し込み、震える手で竹の笛を取り出した。ところどころ、黒い汚れが飛び散っている。
「これは、弟の……
紫水が地面に叩きつけたのは、俺が昔貰ったあの鈴のお守りだった。
「……っ!」
「どうして殺したんだ。なんで……!」
紫水の瞳はいつもの澄んだ藍色ではない。
燃え盛る煉獄のように、赤々とした瞳だった。
「——俺の代わりに殺したのか?」
喉奥がひりつくように渇き、言葉が張り付いて出てこない。
まさか、紫水の弟を殺していただなんて。
足元が崩れ落ちたみたいに、ぐわんと揺れた。
「鬼たちは託宣以外の鬼を殺されたことに怒り狂っている。もう止められない。間も無くここにも押し寄せてくるぞ」
紫水が、俺にこれ以上ないほどの怒りをむけていた。
「……お前から、天藍の血の匂いがする。御影が殺したんだと、きっとすぐに分かる」
そうなれば、鬼たちは俺を嬲り殺しにするだろう。身から出た錆だ。文句は言えない。
答えは分かっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「——ふたりで、どこか遠くに逃げないか」
紫水は唇を噛み締め、大きく顔を歪めた。
「——できない」
紫水の体は小刻みに震え、拳は硬く握られている。はらはらと涙をこぼしながら、俺に向かって拳を振り上げた。
「もう誰にも止められないんだ。せめて、他の奴に殺される前に……」
そうか。
紫水に殺されるなら、それもいい。
お前さえ、生きてくれれば。
俺の胸を、紫水の腕が貫いた。
心臓よりも少し上。
馬鹿だな、心臓を潰さなきゃ妖狐は死ねないのに。
「御影、ごめんな……」
「紫水、俺、は——」
その後のセリフは喉の血溜まりに消えた。
引き寄せられるように体が後ろへ倒れていく。
そのまま凍った川の中に、垂直に落ちていった。
紫水、俺は間違えてしまった。
でも、お前が死んだ世界なんか嫌だったんだ。
お前にただ、生きていて欲しかったんだ。
俺はお前を——愛していたんだ。
何一つ言葉にならないまま、冷たく暗い川の底に沈んでいく。そこで意識はぷつりと途切れた。
♢♢♢
朝の光が瞼を刺す。
いつの間にか降り積もった雪は、全てを覆い隠すように山を真っ白に染め上げていた。
全身に軋むような痛みを感じたが、貫かれた胸は跡が残っているものの傷は塞がっていた。
(生きている……川に浸かっていたことで傷が塞がったのか?あれからどれくらいの時間が経ったんだ……)
恐ろしいほどに静かだった。
時折雪はとさりと木からこぼれ落ち、山の獣も眠りについて沈黙している。
重たい体を引き摺り、妖狐の里を目指した。
紫水は無事だろうか。
まさか、戦って怪我でもしていないだろうか。心配で、嫌な予感がして堪らない。
どうしてこんなに静かなんだ?
どうしてこんなに、
里に帰った俺は、愕然とした。
屋敷は黒く燃え落ち、そこかしこに骨や燃え残った死体が転がっている。妖狐はもちろん、鬼も。
焦げ臭い匂いが漂い、生き物の気配がまるでない。
「紫水……」
祈るように、この中に紫水がいないことを願って一人一人の顔を見た。
しかし、紫水は見つからない。
屋敷の中で見知った顔の妖狐が息絶えているのを見つけた。父や、腹違いの兄たち。そして離れでは、椿も。
元々里の妖狐の数は鬼の数よりも圧倒的に少ない。油断していたところに一斉に攻めてこられ、やられたのだろう。
食物だと見下していた鬼に殺されて気分はどうだ、と問いたかったが、答えるものは誰もない。
俺はもう一度雪厳の滝へと向かった。
♢♢♢
滝の岩場では白い雪が降り積もっていた。
そこに横たわる大きな体がある。
心臓が、嫌な音を立てて震えている。
「し、すい」
長い黒髪が、地面に流れる川のようだ。
虚に開かれた光の無い瞳を見て、俺は悟った。
——俺だけが、生き残ってしまったのか。
震える手で、首だけになった紫水を抱えた。
『御影、いつか海に行こう。二人で』
交わした約束は、もう二度と叶わない。
「紫水、紫水……!ああっ……うわあああ!!」
冷たくなった紫水の首を泣きながら抱きしめ、長い間、そうしていた。
雪が解け、春が来ても。
俺はその場所から動けなかった。
やがて季節は移ろい、何度も巡り、何年もの月日が過ぎた。
骨だけになった紫水をずっと手放せず、俺は長い年月を死んだように生きた。
そんなある日、僧侶だという人間と出逢った。
「お前はここでずっとそうしているのか?その手にある骨は、誰のものだ」
「……俺の友のものだ。俺のせいで死んでしまった」
「弔ってやらないのか?」
俺は黙って紫水の骨を胸に抱いた。
遼念はやれやれ、というようにため息を吐き、俺の隣に腰掛けた。
「なあお前さん、大切な友ならばきちんと見送ってやらねばいかんぞ」
「嫌だ。俺はずっと紫水といたい。一人になるのは嫌だ」
頑なに心を閉ざす俺に、遼念はある話をしてくれた。この世には「輪廻転生」という言葉があり、死んだ者の魂はまたいつか生まれ変わることができるのだという。
「じゃあ、紫水もいつか生まれ変わるのか?」
「そうだ。だがお前がいつまでもそうやって肌身離さず骨を持ってれば成仏もできんし、生まれ変わることはできん。墓を作ってやりなさい」
そう諭され、ようやく俺は紫水の骨を土に埋め、墓を作った。
ならば俺はそれを待とう。
紫水が生まれ変わる、その日まで。
季節は足を止めることなく何度も巡り、年号は何度も変わった。
時代が変わり、景色も変わり、さまざまな場所に移り住んだ。
紫水の生まれ変わりに会えば分かると、盲信して。
この八百年間は、なんの確証もない奇跡を信じた、あてのない旅だった。
紫水の生まれ変わりに会うことは、ついに一度も無かった。
妖狐は百年ごとに尾が増える。
百年を過ぎればまた成人の体まで若返り、次の百年を生きていく。
名前を変え、姿を変え、身分を変え、人の中に溶け込み生きてきて、いつしか本当の自分の姿を忘れかけていた。
今世は九回目の生だった。
そして、このマンションで紫水の生まれ変わりである涼太に出逢えたんだ。
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