第36話 前世ー託宣ー
冬のある夜、父に山の中腹にある泉へと連れて行かれた。
そこでは一族の年老いた呪い師が、なにかの儀式の準備をしているようだった。
泉の周囲には狐火が灯り、地面には獣の骨、翡翠の勾玉や榊が並べられている。
(なんだ……?一体何が始まるんだ)
訝しみながらも父に倣い、その場に膝をついて座った。
霜髪の呪い師が骨を泉に投げ込むと、狐火が一際大きく燃え上がり、泉が金色の水飛沫を上げた。
舞い上がった水しぶきは星灯のようにキラキラと輝き、僅かな間空中に滞在して、一斉にまた泉に落ちた。
すると呪い師は急に背筋を正し、彼のものではない凛とした声で滑らかに話し始めた。
「産に必要な贄、
同じ言葉を数度繰り返すと、口から赤銅色の鳥を吐き出した。
その鳥は翼をはためかせ、天へと飛び立っていった。
「……父上?これは」
「お前の子が生まれるために必要な贄の託宣だ」
——贄?託宣?
聞き間違いでなければ、先ほど呪い師が唱えたのは紫水の名だ。
「妖狐を産むには多くの妖力を消費する。そのため、
頭の中で、遠い昔に紫水が言っていたことを思い出した。
『大人は“妖狐に近付くな、喰われるぞ”なんて言うんだよ。でも、御影を知ったらみんなもうそんなこと言わねえんじゃねえかな』
違う。鬼たちが正しかった。
俺も、一族の妖狐もみんな、鬼の命を喰って生まれた存在だったんだ。
紫水の声が、頭の中で反響している。
体の芯が凍り付いたように冷たい。
「どうした?」
「……いえ。しかし、鬼を生贄にするのは反発があるのでは……逃げられでもしたら」
「鬼といっても、元々は人の胎から生まれた生き物だ。抗う術など持たぬ。その昔、山に捨てられていた鬼の子をここまで増やして桃源郷のような里を作ってやったのだ。数十年に一度、生贄を差し出すという約束でな」
妖狐は鬼を家畜として飼っていた。これが、成人した一部の妖狐のみが知る真実なのだ。
あまりに酷い現実に、目の前が真っ暗になった。
しかし、父に紫水を知っていることを悟られてはならない。平静を装い、俺は水面下で紫水を救う方法を考え始めた。
「生贄の心臓はどのようにして奪えばいいのですか?」
「お前自ら取りに行くのか?まあそれもよかろう。心臓は必ず生きたまま取り出せ。それが一番滋養が高い。託宣で選ばれた鬼には痣がつく。必ず痣のある鬼を殺せ」
鬼を餌としか見ていない口ぶりだ。
妖狐とはなんと醜い生き物なのか。
「期日はいつ」
「そうだな……次の新月までに」
それまでに、なんとかしなければいけない。思いがけず、紫水に会ったのはそれから二日後だった。
木枯らしが吹き荒れる夜更け、紫水がいつもの場所で待っていた。
「御影、良かった会えて」
紫水は吐く息を白く染め、いつも通り笑っていた。
しばらく待っていたのか、鼻先が赤くなっている。どんな顔を紫水に向ければいいか分からず、俺は足元に目を落とした。
「最後かもしれないから」
紫水が口にした言葉に、思わず間抜けな声が漏れ出た。
「……え?」
「一昨日、託告鳥が来た。俺は——妖狐の贄になるらしい」
(……知っていたのか)
目を見開いて唇を震わせていると、紫水は眉を下げて「そんな顔するなよ」と俺の肩に手を置いた。
「——駄目だ、そんなことはさせない。紫水、お前はすぐに山を出ろ。次の新月にはお前は……!」
けれど紫水は頭を左右に振って、着物を開き右肩を覗かせた。そこには鮮やかな朱色の花の紋様が刻まれていた。
「贄には、山を出られない呪術がかけられている」
「そんな……」
「それに、俺が逃げたら別のやつが贄になるだろ。だから……仕方がない」
肩に置かれた紫水の指先はカタカタと震えていた。
「……ごめんな。あの約束、守れそうもない」
いつか俺たちが族長になって、鬼と妖狐の一族が仲良くなる。
思い描いていたささやかな夢が、未来が、掌をすり抜けて消えてしまう。
紫水の震える指先を握るのが精一杯だった。
——紫水が死ぬ?
嫌だ。
世界から紫水が消えるだなんて、耐えられない。
「紫水、俺がなんとかする。だから諦めるな」
俺がお前を守る。
何に代えても、何を犠牲にしても。
♢♢♢
紫水を死なせずに済む方法。
鬼の心臓を喰う以外で出産する方法はないのか里の古文書を調べたが、腹の子は間も無く臨月を迎えようとしていた。
妻と子をもろとも殺す。
だが、子を孕んだ妖狐は貴重な存在で、常に見張りがついている。
時間がない。
次の新月まで、あと十二日。
九日。
五日。
三日。
急いて追い詰められた俺は、最悪の手段に手を出した。
俺は、最愛の友のために夜叉になることを決意した。
新月の宵、山から鬼の里に帰るところの鬼を襲った。背格好が紫水に似ていて一瞬だけ躊躇したが、口を塞いで生きたまま胸を抉り、心臓を取り出した。
鬼の生命力は驚くべきことに、心臓を取り出しても鼓動は止まることなく、手の中でとくとくと脈打っていた。
生温かく、ドロリとした甘い芳香。
自分の本能もまた、鬼の心臓を食物として認識したことの悍ましさに吐き気がした。
その足で妖狐の里に戻り、妻のいる離れの屋敷に向かった。
厳重に結界が貼られ、俺ですらそう易々と入ることはできない。
襖を開ければ、彼女は布団の上で微睡み、大きな腹を摩っていた。
金糸の髪が川のように畳に広がっている。
「椿、体調はどうだ」
「はい、問題ございません」
「鬼の心臓を取ってきた。早いうちに食べなさい」
「……貴方が?直接取りに行ったのですか?」
椿は信じられないものを見るような目で俺を凝視した。その視線を誤魔化すように、畳に置かれた産着に目をやる。
「……ありがとうございます、旦那様」
彼女は頭を下げ、一言礼を言った。
「養生するように」と形式的な声を掛けて離れを出て、細く息を吐き出した。
これで、役目は果たせたはずだ。
もう紫水の心臓は必要ない。
あいつが死ぬことはないんだ。
良かった、紫水を守れた。
夜の帳に浮かぶ数多の星々を見上げれば、青い箒星が空を切り裂くように駆け抜けていく。
一つ、二つ、流れては消える流星群。
紫水も、今この夜空を見上げているのだろうか。
俺は何もかもが上手くいったような錯覚を起こしていた。
これが、崩壊の始まりだということも知らずに。
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