第34話 御影
扉を開けた瞬間、見えない力に体を引っ張られる感覚がした。
「わっ……!」
俺は玄関へ前のめりになって倒れ込んだ。
直後、勢いよく扉が閉まる。
「涼太、涼太!!」
玄関のドアをどんどんっと叩く音と、皐月さんの叫ぶ声が聞こえる。なのに、俺の喉は捻りつぶされたように声が出なかった。
背中が重くて、空気が凍ったように寒い。
息苦しくて、肺にまで酸素が入っていかない。
「はっ……ううっ……!」
重みはどんどん増して、逃げ場を求めて床をかりかりと掻きむしった。
(なんだこれ……!苦しいっ……!)
俺、死ぬのか。
脳裏に心不全を起こしたという前の住人の話がよぎったその時、耳元で声がした。
『紫水、逢いたかった』
幼い子どもの、嬉しそうな甲高い声。
——御影?
『ずっとずっと待ってたんだよ。ようやく逢えた』
弾んだ声は、すぐに泣き声に変わった。
『もうどこにも行かないで。一人にしないで、離れないで。ずっとずっとずっとずっと——二人でいよう』
細い腕が首に回る感触があった。
ぞっとするほどにひやりと冷たく、悪寒が走る。
霞んでいく視界に、ベランダに繋がる窓が映り込み、無意識に手を伸ばした。
人影が見える気がする。幻覚だろうか。
生理的な涙が浮かんで目の前が歪んだその時、ふっと息苦しさが消えた。
金木犀の匂いが鼻孔を通り抜け、誰かに抱きしめられている温もりがある。
「——これは僕のものだ。触るな」
獣の咆哮と低い唸り声。
炎が灯ったような熱を感じる。
凍てつく寒さは消え失せ、声も聞こえなくなった。
俺の瞳に映ったのは、雪のように白く染まる長い髪。
頭の上から飛び出た耳と、揺れる長い九つの尾。
紅白の絹で織られ、吉祥文様の入った着物。
何度も夢で見た、記憶の中の御影だ。
人は本当に驚いた時、声を出せないらしい。
食い入るように見つめた視線に、彼は気まずそうに口を引き結んだ。
そして細く息を吐き出すと冷たい風が吹き、瞬きの間に見慣れた皐月さんの姿に変化した。
彼は口元を震わせている俺に、「戻ろう」と一言だけ呟いた。立ちあがろうとしたが、腰が抜けたのか上手く力が入らない。
皐月さんは俺を横抱きに抱え上げ、誰もいない部屋を後にした。
♢♢♢
ソファに静かに降ろされ、何か飲むかという問いかけにも力無く首を振ることしかできない。
部屋で起きたことも、皐月さんが御影の姿になったことも、信じがたい現実だ。
でも、俺は自分の五感でそれらを体験してしまった。
目の前で膝まづいている皐月さんに、掠れた声で問いかけた。
「あなたは……誰?」
彼は目を伏せ、少しの間沈黙を貫いた。
でもやがて諦めたように、力なくぽつりと溢した。
「——八百年だ」
抑揚のないその言葉の重さを、どう表せばいいのか分からない。
「紫水が死んでから、八百年が経った」
ドクンッと心臓が大きく跳ねた。
まさか。
そんなはずない。
だって、御影は俺が殺したんだ。
でも——御影が滝つぼに落ちたその後。
俺は御影の遺体を見ていない。
頭の中に、忘れていたはずの記憶が蘇った。流星が目の中に飛び込んできたみたいに、視界が青白く爆ぜる。
閉じ込めていたはずの、最期の日の記憶が開いた。
♢♢♢
御影の体が滝の中に消えていく。
水の中に沈んで、瞬きの内に見えなくなった。
足元に落ちているのは、昔俺がやった鈴のお守りだ。俺はそれを拾い上げ、固く握りしめた。
『ごめん、御影……俺は、お前を守れなかった』
膝をついて項垂れていると、背後に人の気配があった。それに気付いた時には、首元に冷たい氷の刃が当てられていた。
『貴様、この中立地帯で妖狐を殺したな』
『……託宣になかった鬼を殺した妖狐を始末した。これで痛み分けだろうが』
『痴れ者が……』
ギリ、と刃を強く握る音が耳元で聞こえた。
白く染まった山の麓には、鬼火のような赤い光が点々と列をなして蠢いている。
『見ろ、山の麓を。あの赤い光は鬼の目だ。怒りと憎しみで満たされた鬼は、もう誰にも止められない。今から戦になるぞ』
『馬鹿め、鬼が束になっても我一族に一矢報いることは出来ぬ!家畜の分際で牙を剥く等、誰のお陰で何不自由なく生きてきたと思っているのだ!』
俺は腹の底から声を上げて、大声で笑った。
死を前にして頭が狂ったのかと、さぞ不気味に映っただろう。
『自由?自由だと?そんなもの、どこにあるんだ!もう終わりだ、何もかも!首だけになっても、妖狐を殺し尽くすまで百鬼夜行は止まらない!』
氷の刃が振り上げられ、夕日を浴びて眩く光った。
御影、お前を一人で逝かせない。
それが、最期だった。
♢♢♢
「あああああ!!」
首が、焼けるように熱い。
冷たく鋭いもので切り落とされたかのような痛みで、俺は首元を抑え絶叫した。
前世の猛烈な痛みが、記憶が、濁流となって俺を飲み込んでいく。
俺が消える。
怖い
怖い
怖い!
「涼太!!」
「はぁーっ!はぁーっ!」
呼吸も上手く出来ずに泣きじゃくっていると、暴れる体を押さえつけるように抱きしめられた。
「大丈夫だ、それは今の痛みじゃない、過去の記憶だ!だから大丈夫だ……!」
何度も何度も大丈夫だと唱えられ、痙攣した体が徐々に静まっていく。
呼吸が落ち着くと、ガクッと力が抜けて倦怠感が全身に広がった。
もう指先一本も動かせない。
彼は辛抱強く「大丈夫だ」と唱え続け、俺が落ち着くのを待った。
口をはく、と動かしてようやく「みか、げ」と名を呼んだ。
彼は複雑な顔をして、もう二度と呼ばれるはずのなかった名前に静かに返事を返した。
「御影は、死んでなかったの?ずっと……あれからずっと生きてたってこと……?」
頷いたのを確認した俺は、彼の胸元に追い縋るように強く着物を握りしめた。
「前世、何があったか知りたい」
「……」
「ちゃんと教えて。じゃないと、俺はあなたが御影なのか皐月さんなのか分からない」
「分かった……全部、話すから」
それは、遠い昔の悲しい物語。
鬼と妖狐が滅びるまでの束の間の幸福と、彼が悠久の時を孤独に耐え続けていたという時間の重みだった。
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