第33話 おかえり
肌を刺すような張り詰めた空気。
真冬の雪厳の滝は時を止めたかのように、青白く凍っている。
『どうして殺したんだ』
御影はなにも答えなかった。
『——
紫水の瞳からは大粒の涙が溢れている。
いつもみたいに澄んだ青い瞳ではない。
めらめらと燃えるように紅い、血で塗りつぶしたような色だ。
『もう誰にも止められない。せめて、他の奴に殺される前に……』
御影は抵抗しなかった。
黙って死を受け入れた。
俺の腕が親友の胸を貫き、血潮が噴き出す。
そのまま御影の体は後ろに倒れ、滝つぼに吸い込まれるようにして落ちていった。
山の麓を眺めれば、まるで鬼火のように赤い光が列をなして揺らめいている。
『もう、終わりだ』
「ハッ!!」
大きく息を吸い込み目が覚めた。
酷く夢見が悪い。背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
隣に視線を向けると、皐月さんが眠っている。
心臓がどくどくと追い立てるみたいに揺れていた。
(あの、御守り……)
俺は物音を立てないよう、そっと起き上がった。
皐月さんの荷物。黒いボストンバッグのチャックをゆっくりと開ける。
(なんで俺、こんなこと)
人の荷物を勝手に漁るだなんて、最低だ。
なのに、なにかに憑りつかれたように俺はあの御守りを探していた。
呼吸が浅くなり、鼓動も速まっていく。
バッグの内ポケットに手を差し込んだ時、かさりとした麻布の感触があった。
掌に乗ると、またリィン、と涼やかな音がする。
震える指で袋を開けようとしたその寸前——背後から伸びてきた手が、御守りの上に重なった。
ひゅっと息を呑み、凍りついたかのように体の動きが止まる。
「何してるの」
耳元で、抑揚のない声が静かに響く。
振り向くと皐月さんと目が合って、ぞわりと鳥肌が立った。
「あっ……ご、ごめんなさい、勝手に」
「……中身が気になったの?」
「鈴の音が、聞こえた気がして……それが、聞いたことのある音だと思って……」
しどろもどろに言い訳をした。すると皐月さんは袋の中身を開き、俺の掌に中身をころん、と落とした。
それは、錆びついた鈴。
でも、転がり落ちた時に音はしなかった。
「子どもの頃に貰ったお守りだよ」
皐月さんを疑うような行為をした自分が恥ずかしくなって、目を伏せてもう一度謝罪した。
「大丈夫だよ、怒ってない」
もう寝よう、と促される。
自分の布団に戻ろうとしたが、腕を引っ張られ皐月さんの布団の中に引き込まれた。
強い力で抱きしめられたまま「おやすみ」と囁かれる。
いつも安心する腕の中のはずなのに、なぜだか違和感が拭えなかった。
(皐月さん、なにか隠してないかな)
俺が知らない前世の記憶を持っているような気がして、胸がざわめいた。
(なんで頑なに前世の記憶を忘れようとするんだろう……俺に知られて困るようなことがある?)
必死に記憶の海を探るけど、何も得られないまま夜は明けた。
♢♢♢
次の日、俺はいつも通り振舞った。
俺の考えすぎだ。
変な夢を見たから、ちょっとナーバスになったんだ。
だから、昨夜の出来事を無かったことにした。
旅行を終えた俺たちが帰ったのは、十八時頃だった。
「明日から仕事だ……」
「楽しかったからまた行こう」
鍵を開け、部屋に入って荷解きをした。
途中、ふと手を止める。
「そういえば、また前世の夢を見て」
キッチンにいた皐月さんの動きもぴたりと止まった。
「へえ……どんな夢?」
「最期の日の夢。紫水は御影に”俺の代わりに殺したのか”って」
ガシャンッ
ガラスが割れる音に、肩がびくりと跳ねた。
「大丈夫!?怪我ないですか?」
彼の足元には透明のガラスの破片が散らばっている。
破片を拾い集めようとした時、指先に痛みが走り、眉根を寄せた。
破片の先端が皮膚を突き破り、赤い血が滲む。
その直後、手首を掴まれ、指先が彼の口元に吸い込まれた。
「皐月さ……っ!」
温かい口内で指先が舐められる感触。
爪の先端から痺れるような刺激が走り、思わず指を引き抜いた。
「……ねえ、俺に何か隠してることないですか?」
怪我した指を隠すように固く拳を握りこんだまま、真っすぐに皐月さんを見つめた。
「前世の記憶って、どこまで思い出しました?最期の日のことは?」
「どうして知りたいの?」
「だって……」
「前世のことは忘れようって言ったよね」
畳みかけるように繰り出された言葉。いつもよりも声が低い。
言葉は荒くないのに、威圧感に吞まれそうになる。
静かに爆ぜる火花のように、皐月さんの瞳はぎらぎらと燃えていた。
「御影も誰かを殺したの?だから俺は御影を殺さなきゃいけなかった?前世で何が」
「やめろ!」
肩を強く掴まれ、骨が軋む。
痛みに顔を歪めると、皐月さんははっと息を呑み、震える手を離した。
「ごめん……なにも聞かないで。涼太は何も知らなくていいんだ」
俯く皐月さんを見て俺は確信した。
でも、同時に迷った。
(これ以上追及していいのか?本人がこんなにも言いたくないなら、聞かない方がいいんじゃないか)
だって、今のことじゃない。
曖昧なまま、終わらせる。
その選択肢もあった。
俺がもっと大人だったらそうできたかもしれない。
目を瞑って、片目で物事を見ることもできただろう。
俺は立ち上がって、鞄に荷物を詰めて玄関に向かった。
「……どこいくの?」
皐月さんが俺の後を追いかけてくる。
玄関を出て左方向。
俺は自分の部屋のドアにカギを差し込んで回した。
「ちょっと一人になって考えたいんで、今日は自分の部屋戻ります」
「まだ工事中だろ」
「大丈夫です。もうほとんど終わってるし、元々キッチンの方は被害なかったんで」
目も合わせない俺に、顔を見なくても皐月さんが傷ついているのが分かる。
ドアノブに手をかけ、一拍の間を置いて扉を開けた。
誰もいない真っ暗な部屋の奥から、「おかえり」と高い声が聞こえる。
疑問に思う隙も与えられず、俺の体は部屋の中へと引きずり込まれた。
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