第32話 鈴の音
忙しない都会の喧騒から離れ、大浴場で汗を流し、バーで酒を嗜む。
海の幸山の幸がふんだんに使われた夕食も絶品で、ほろ酔いになった俺は最高の気分だった。
美味しいご飯とお酒、温泉、好きな人。
これ以上に勝る幸せがあるだろうか。
「飯、美味しかったですね。はー、幸せだ」
「それはよかった」
食後にアイスまで食べて、上機嫌で畳の上に転がった。
皐月さんが冷酒を飲む姿を見上げて、「それ、おいしーですか?」と聞いてみた。
「美味しいよ。一口味見してみる?」
グラスを手渡されると、芳醇な香りがする。くいっと一口飲むと、喉がカッと熱くなって口の中に辛味が広がった。
「これ、好きじゃない……」
「涼太にはまだ早いね」
舌を出して苦い顔をした俺を見て、笑いながら水を手渡してくれた。
水が喉を通ると、熱くなった胸が冷えていく。それでも、鼓動だけは全速力で走った後みたいに速かった。
「お風呂、どうする?」
甘さの混じる声がすぐ近くで聞こえた。
期待の入り混じった紫の瞳を見れば、断るという発想はなかった。
「……入り、ます?」
多分、俺も期待していたから。
♢♢♢
露天風呂につかって夜空を見上げた。
都内では見られないような、無数の星明かりが夜空で瞬いている。
皐月さんには背を向けて、不貞腐れたように口を尖らせた。
「皐月さんって結構エロいですよね」
「え?そうかなぁ」
自分の胸元に目を落とすと、赤い痕がいくつも散っている。
すっきりとした表情の皐月さんは濡れた前髪を搔き上げ、うっすらと肌を紅潮させていた。
ザバッと湯船が波打つ音と共に体を引き寄せられ、膝の上に乗せられる。
「ごめんね、嫌だった?」
「い、嫌とかじゃ、ないんですけど……!」
捨てられた子犬のような潤んだ瞳で覗き込まれると、すぐに許してしまう。
俺も、皐月さんには甘いのかもしれない。
「べ、別に見えないところなら、いいんですけど……」
ぱあっと輝きを取り戻した笑顔で、皐月さんは俺をぎゅっと抱きしめた。
「可愛い、涼太。大好き。僕の一番大切な人」
暖かく濡れた肌が吸い付くように触れ合う。皐月さんに包まれていると、思考が溶けてなにも考えられなくなるくらい心地よい。
指先が絡むと、今日だけで何度目なのか分からないキスをした。柔らかくて甘くて、重なるほどに離れられなくなってくる。
深い口付けを繰り返して蕩け切った顔をしているだろう俺を見て、彼は満足そうに口元を歪めた。
こうしていると、霊が憑いているということも、前世の記憶もどうでもよくなってくる。
ただ、今はこの温もりに溺れていたい。
そんな倒錯的な願いが頭の中に満ちていた。
♢♢♢
皐月さんの手つきが、際どいものになってきた。ここは外だから、流石にこれ以上はアウトだ。
「お、俺のぼせそう!先に上がるね!」
弾かれたように湯船を飛び出し、どくどく暴れる心臓を落ち着かせるために洗面所で顔を洗った。
(さっきも内風呂であんなに……!)
思い出すと、また体がかぁっ、と熱くなる。素数を数えて、呼吸と諸々を落ち着かせた。
「タオルタオル……あ、」
手を彷徨わせていると、先ほど脱いだ浴衣がぱさりと床に滑り落ちた。
皐月さんの浴衣を拾い上げた瞬間、りぃん、と聞き覚えのある鈴の音が鳴った。
(——なんだ?)
遠い昔に聞いた、鈴の音。
浴衣を広げ、音の出どころを探る。
すると、古びた紫色の御守りのような袋が懐から出てきた。
触れた瞬間、再びりぃん、と音が鳴る。
音を聞く度、右肩の青あざがじん、と痛んだ。
その痛みに紛れるように、しわがれた男の声が頭の中で響いた。
『どこも行けんよ』
掌にのった小さな御守りが、やけにずしりと重たく感じる。
(中に、何が……)
その時、内風呂の扉が開く音がした。
俺は慌てて浴衣とそのお守りを元の位置に戻した。
「あれ、まだいたの?」
「あ、ちょっと……立ち眩みして」
「大丈夫?」
洗面台に手をついて俯く俺は、皐月さんの顔を直視できなかった。
心配する彼には申し訳なかったが、具合の悪い振りをして布団に入った。
さっき見たあの御守りが、瞼の裏に焼き付いている。
あの鈴の音を、俺は知っている。
そうだ、あの音は——紫水が御影にやった鈴の音にそっくりだ。
鈴なんて、どれも一緒だろう。
そう思いたいのに、あの音が耳に残って離れなかった。
♢♢♢
『百鬼夜行?なんだそれ』
鬼の里で一番長寿の、萱草爺さんの家で薪割りを手伝っていた時のことだ。
爺さんは耳は遠いが、
切り株に腰掛けていた爺さんの隣に座り、静かに耳を傾けた。
『鬼は、普段は穏やかな生き物じゃ。だがなぁ、ひとたび怒りを持てば、それは飛び火する。怒りは恨みを呼び、憎しみに変わり、果てにはなにもかも焼き尽くすまで終われんのじゃあ。火種を持ち込むなよ、誰にも止められんからなぁ』
言っていることの半分も分からなかったが、適当に相槌を打っておいた。
『どこも行けん、どこも行けんよ。鬼は山から出られんのじゃあ』
爺さんは首を振ってよくそう言った。
俺に言っていたのか、自分に言い聞かせていたのかは分からない。
鬼の角には病を治す薬効があり、狙われる存在。
だから鬼はこの山に隠れ住むのだと、大人に言い聞かせられて育つ。
だが、俺は山を出たかった。
もっと広い世界を見てみたかった。
いつか、御影と共に。
そんな願いを持ったから、俺が選ばれたのかもしれない。
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