第30話 試してみよう
この部屋の扉を潜れば、何か変わってしまうのだろうか。
高鳴る胸を抑え、ドアをノックする。
出てきた皐月さんは、少しだけ驚いたような顔をしていた。
(やっぱり迷惑だったのかな)
そう考えて俯いたのも束の間、すぐに腰に手を回され、部屋の中へと引き込まれる。背後から扉がバタン、と閉まる音がした。
皐月さんの部屋に入るのは初めてだ。
ベッドとデスク、そして本棚。モノトーンでまとめられたインテリア。
整然としていて、余計なものがない。
エアコンが効いているのか、少し肌寒かった。
「座って」
ぎこちない動きでベッドに腰掛けると、皐月さんは薄いブランケットを肩から掛けてくれた。
「事故物件、何があったのか不動産屋さんに問い合わせてみたらどう?」
「聞いちゃったらもう住めないですよ……」
「じゃあ、うちに住めばいいよ」
隣に座った皐月さんは、俺の前髪を撫でながらごく当たり前のことを口にするみたいな言い方をした。
それが凄くくすぐったくて、嬉しい。
「皐月さんは、俺に甘いですよね」
「うん、もっと甘やかしたいよ。涼太にはなんでもしてあげる」
聞きなれているはずの自分の名前が、別の響きを持ったみたいだ。
皐月さんに涼太と呼ばれると、腹の底がそわそわした。
「……寝ましょっか」
ピ、という電子音で部屋の明かりが消灯した。薄暗い部屋で、ベッドが軋む音とエアコンの稼働音だけが静かに響く。
緊張で胸が小刻みに震えている。
部屋に誘われたのって、そういうことなんだろうか。期待と不安が入り混じって硬直していると、不意に手が握られた。
「っ!」
「指先、冷えてるね。寒い?」
「い、いや、大丈夫です」
触れられた部分がジンジンと脈打っている。皐月さんは俺の手を自分の口元に引き寄せて、甲に、指に、口付けを落とした。
「さ、皐月さんって、その、慣れてますよね」
「ん?何が?」
「年上だから当たり前なんですけど……あの、男と付き合ったことはあるんですか?」
「ないよ。涼太だけ」
自分だけが特別なんだと言われたような気がして、胸が躍った。
俺は弾かれたように起き上がり、前から考えていたことを思い切って打ち明けた。
「あ、あの!じゃあ、俺たち大事なことを決めないといけないんじゃないですか!?」
「大事なこと?」
皐月さんも上半身を起こし、首をこてんと斜めに傾けた。互いに向かい合った俺たちは、今から非常に重要な話し合いをしなければいけないのだ。
「こ、恋人同士がすることで……どっちが男でどっちが女か決めなきゃいけないですよね?」
「それって、抱くか抱かれるかってこと?」
「ま、まあそうですね……」
敢えて遠回しに伝えたのに、ストレートに球を打ち返される。
恥ずかしさのあまり、顔を両手で覆い隠した。
「僕はどっちでもいいよ。涼太はどっちがいいの?」
「ええ!?そ、そんなの分かんないですよ、やったことないんだし……」
脳内で様々な妄想が繰り広げられる。さすが童貞、想像力だけは豊かだ。それでも経験値不足を補うには到底足りない。
「じゃあ、試してみようか」
「へ!?」
皐月さんが俺の体をひょい、と持ち上げ、自分の体の上に跨らせる。
彼の顔のすぐそばに手をつくと、まるで俺が皐月さんを押し倒してるみたいだ。
「どんな気分?」
「な、なんだか凄く……申し訳ない気分です」
皐月さんを見下ろすのが居た堪れない。
これ、俺が攻めってこと?
前世では胸をぶち破ってるのに、今世で尻をぶち抜くのは申し訳なさすぎる。
無理だ、俺に攻めはできない。
そんな俺を見て、彼は面白そうに口元を歪めて笑っていた。
「じゃあ、逆の方がいいかな」
「わっ」
体を反転され、今度は皐月さんに組み敷かれた。
手首をシーツに縫い止められ、見上げた紫の瞳には愉悦が浮かんでいる。
「うん……僕は、こっちの方がいいかな」
心臓が口から飛び出そうなくらい胸の中で暴れている。
その手を振り解けない。
ゆっくりと、彼の顔が近付いてきた。
唇を啄むような優しいキスを何度か交わし、次第に深いものへと変わっていく。舌を吸われると、甘い痺れが身体中を駆け巡った。
「んっ……ぷはっ」
皐月さんとのキス、気持ちいい。
もっとしたい。
溶けそうな頭でぼんやりしていると、次は首筋に口付けが降ってきた。
(あっ……ヤバい、これ)
ゾクゾクする快感が広がり、同時に「これ以上は駄目だ」と理性が必死に止めようとする。
(だって、男同士がするには準備がいるよな!?そんな急には入らないよな!皐月さん男と付き合ったことはないって言ってたけど、もしかしてこのまま最後まで……!?)
Tシャツの裾から、皐月さんの指がするりと入り込んだその時、俺は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って皐月さん!そんな、漫画みたいにツルッとは入らないから!!」
「え?」
一拍の間を置いて、皐月さんは肩を震わせて笑いを噛み殺していた。ツボに入ったのか、お腹を抱えて笑っている。
「そ、そんな……分かってるよ。いきなり入れないよ」
「だ、だって!触り方がエロかったから!」
「ごめんね……あー、可愛い」
吐息まじりの恍惚とした声で囁くと、皐月さんはもう一度俺を優しく抱きしめた。
「安心して、涼太が嫌がることはしないよ。一緒にいられるだけで幸せだから」
額に蝶が降り立つようなキスがされる。
こういうのが、甘やかされるということなんだろうか。むず痒いような気持ちになったけど、今夜だけは子どものように甘えてしまいたいと思った。
「……手、繋ぎたい」
皐月さんは俺の手をそっと握ってくれた。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
憑かれていることなんかとっくに忘れて、俺の心は皐月さんでいっぱいになった。
幸せすぎて、怖いくらいだ。
例えば幸せというものに温度があるのなら、それはきっとこの手の温もりに近いのだろう。
繋いだ指先から溶けて混ざり合うように、微熱が広がっていく。
もう片方の手で、皐月さんの頬に触れた。
彼はくすぐったそうに目を細めて、夜の静寂に紛れそうな笑い声が部屋に響く。
薄いブランケットに包まれて、皐月さんの気配を隣に感じるこの夜に、もう何一つ怖いものなんかなかった。
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