第29話 憑かれてるんです
七月に入り、暑さが急に勢いを増してきた。いつもよりも早く起床し、汗ばんだ体をシャワーで流す。
どうせまた通勤で汗をかくけど、と思いつつ、さっぱりして爽快な朝だ。
キッチンで朝食の準備をしていると、皐月さんが起きてきた。
「おはよう桃園くん」
「あ、おはようございます皐月さん」
「今日は遅番だったっけ?」
「はい。皐月さんは、出かけるんですよね」
「うん、今日は京都の大学に行ってくる」
「……前世の?」
頷いた皐月さんは、俺をそっと抱きしめた。
「お土産、なにがいい?」
「なんでもいいですよ。っていうかすいません、皐月さんにばっかり任せちゃって。大変ですよね」
すると、彼は愛おしそうな眼差しで俺の頬に口付けを落とした。
「大変なんかじゃないよ。二人の未来のためだから」
皐月さんは優しい。
柔らかく温かい毛布で包み込まれているようで、ついその優しさに甘えたくなってしまう。
「俺にできることがあったら、言ってくださいね」
せめてもの気持ちでそう言うと、彼はまた頬を緩めて俺の頭を撫でていく。
子ども扱いされている気分だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
♢♢♢
仕事終わりに駅前を歩いていると、すれ違いざまに「桃園?」と声をかけられた。
振り向くと、メガネをかけた、同じ年頃の青年。名前は出てこないが、見覚えのある顔をしていた。
「えっと……」
「俺だよ、竹原。中学の時同じクラスだった」
そこでようやく、記憶にある坊主頭の竹原と一致した。
「竹原!?うわ、久しぶり!髪の毛あるから分かんなかった。なんでここに?」
「友達の家で宅飲み。桃園、今何してんの?学生?」
「俺はもう働いてるよ。保育士してる」
昔話に花が咲き、少しの間立ち話をしていると、竹原が時計を気にした。
「わり、俺もう行くわ」
「うん、じゃあ」
そう言って別の方向に歩き出した竹原は、数歩歩いた後、すぐに踵を返して戻ってきた。
「竹原?どうした?」
「いや……あのさ、別に心当たり無かったら流してくれていいんだけど……お前、最近心霊スポットとか行った?」
「え!?い、行ってないよ……なんで?」
竹原は言いにくそうに頭を掻き、視線を左右に彷徨わせた。
「あのさ、俺、昔から所謂霊感的なものがあって……お前、憑いてるよ」
その瞬間、脳裏を横切ったのは『事故物件』というキーワード。
「え、な、なんか見えてんの?いるの?」
「いや、そんなはっきり見える訳じゃなくて、ぼやっとしてんだけど……ちょっと珍しい種類の影かも。守護霊とかじゃない。なんかすっげー纏わりついてる」
「俺、事故物件住んでる……」
正確には一日足らずで住めなくなったが。
思い当たる節といえば、それしかない。
「それ!それだわ絶対!引っ越すか、お祓い行くかしたほうがいいぞ」
「そんなにやばいの!?」
「俺、忠告はしたからな」
そう言って竹原は行ってしまった。
残された俺は、血の気が引いた体を抱え、マンションに戻った。
♢♢♢
ソファでブランケットにくるまり、膝を抱えて座っていると、玄関からドアの音がした。反射的にリビングを飛び出し、俺は皐月さんの胸に飛び込んだ。
「わっ、どうしたの?」
「俺、憑かれてるんです!」
「疲れちゃったの?大丈夫?仕事、大変だった?」
「そっちじゃなくて!霊的なものに憑かれているらしいんですー!!」
「ええ……?」
皐月さんは要領を得ない表情で、とりあえず俺を落ち着かせるために背中を優しく叩いた。
お土産の八橋と緑茶を机の上にことりと置いた。俺は細く息を吐き出し、今日旧友に忠告された出来事を震える声で話した。
「桃園くんの部屋、事故物件ってことだけど、何があったかは知ってるの?」
「いや、事故物件ってことは不動産屋から聞いたんですけど、具体的なことは聞いてなくて……何があったか知ったら怖くなるじゃないですか。だから伝えなくていいですって言っちゃいました」
皐月さんは呆れた顔で「契約を結ぶ前にちゃんと確かめなさい」と俺を窘めた。ごもっともな説教だ。
(どうしよう。今のところ何も無いけど、皐月さんに迷惑かけたら嫌だな……)
少しぬるくなった緑茶を啜り、にっき味の八橋を頬張った。滑らかな餡の甘さが、少しだけ強張った心を解いてくれる。
「じゃあ、お祓いに行く?それでついでに旅行もするのはどう?」
「お祓い旅行……!いいですね、何処がいいかな」
皐月さんはノートPCを自室から持ってきて、俺の隣の席に座った。
「休みはとれそう?」
「えっと……確か再来週は土日が連休ですね」
「じゃあその日程で行けるところ探してみようか」
カタカタとキーボードを叩き、近場の温泉地を検索する。
「熱海とか、箱根の海側はどうかな。大きな神社もあるね」
温泉と聞いて、つい浴衣姿の艶めかしい皐月さんが頭の中に浮かんだ。
(皐月さん和装似合いそうだよな、浴衣美人……って、何想像してんだ!去れ煩悩!!)
己の破廉恥な妄想を往復ビンタで粛清していると、皐月さんは頬杖をついて斜め下から俺の顔を覗き込んだ。
「今、何考えてたの?」
「え!?いや、なななにも!?考えてませんが!?」
俺の下手くそな誤魔化しに、くすくす、と笑う声が間近で聞こえる。
「……今夜は一緒に寝ようか?」
「へっ」
「お化け、怖いんじゃない?」
彼が俺の後ろを指差したけど、頭の中は邪な妄想で満たされていてもうそれどころじゃなかった。
顔に熱が集まっているのが分かる。
返事もできずに固まっていると、皐月さんは「涼太が来たかったら、おいで」と頭を一撫でして風呂場へ向かった。
♢♢♢
その夜、霊的な恐怖心はとっくに霧散していた。
でも、俺は皐月さんの部屋の扉をノックした。緊張を誤魔化すように、胸元で抱えた枕が可哀想になるくらいにへこんでいる。
ドアを開けた皐月さんは一瞬目を大きく見開いて、でもすぐに俺の腰を引き寄せて部屋に招き入れた。
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