第26話 例え忘れても


 幸せになるために、今を生きる。

 だから、前世のことはもう忘れよう。


 そう考えた時、打ち寄せる波が、強い力で俺たちを押し流そうとした。

 まるで前世が今の二人を飲み込むみたいに。

 

 もし前世の記憶を全部思い出したら、桃園涼太として生きてきた二十年は、無くなってしまうのだろうか。


 深い谷底に転げ落ちるような錯覚を起こして、咄嗟に俺は皐月さんの服の裾を掴んだ。


「……?どうしたの?」


「あ……な、なんでもないです」

 

 彼の大きな手が俺の頬を滑るように撫でると、不安が和らいでいく。


 そのまましばらく浜辺を散歩して、海沿いのカレー屋に歩いて向かった。

 オープンより少し前に到着すると、既に何組もの客が並んでいる。しばらく待つと、店内に案内された。


 店にはスパイスの良い香りが立ち込め、大きな窓からは明るい陽射しに照らされる海が見える。俺はエビカレー、皐月さんはビーフカレーを注文した。


「カレーの匂い嗅ぐと、もうカレーの口になりますよね」


 さっきの嫌な感覚を忘れたくて、無理矢理明るく振舞った。

 皐月さんの言うように、前世の記憶を持ち続けることはいいことじゃない。


 もし忘れられる方法があるなら——でも、前世を忘れてただの桃園涼太と皐月環になっても、今のままでいられるのかな?


 空調の効きすぎた店内が、やけに肌寒く感じる。

 膝の上に置いた手をきゅっと握りしめ、小声で彼に問いかけた。


「前世の記憶、無くす方法があるとするじゃないですか」


「うん」


「もし前世の記憶が無くなっても——俺たちは変わらないですよね?」


「……うん」


 静かな肯定。

 でも、芯のある意思の強さを秘めた返事だった。

 

「変わらないよ。前世の記憶が無くなっても、僕たちは変わらない」


 皐月さんは一度も俺から目を逸らさず、真っ直ぐに見つめた。その目は穏やかに凪いでいて、ただひたすらに優しかった。


「……食べたら、江ノ島水族館行きましょうか」


「うん、行こう」


 不安だった。

 もし前世の記憶がなければ、こうしてお互いを大切に想い合うことなんて、なかったのかもしれないって。


 でも、皐月さんの一言でその不安は霧が晴れたように吹き飛んだ。

 大丈夫だ。

 例え前世を忘れても、何も変わらない。

 皐月さんのことが、好きだ。

 

 これは紫水の感情じゃなくて、間違いなく俺の気持ちだと、そう思えるから。


 ♢♢♢


 水族館の帰りの路面電車。

 空はもう茜色に染まり、夕陽が地平線の向こう側へと沈んでいく。

 電車の振動でうつらうつらと微睡んでいると、「もたれかかっていいよ。着いたら起こすから」と囁く声がした。


 眠くて仕方がなくて、俺は素直に皐月さんの肩に頭を預けた。


 深く冷たい海の底に潜るみたいに、意識が淡く溶けていく。

 


 ここはどこだろう。

 古い時代の、木造の家。


 囲炉裏の周りに、鬼たちが集まっている。

 眉間には深い皺が刻まれ、この世の終わりのような悲憤の表情を浮かべていた。

 

 音が聞こえない。

 彼らの口の動きに目がいった。


『エ ラ バ レ タ』


 ——選ばれた?何に?


 鬼たちの視線を集めている者がいた。

 濡羽色の長髪を高い位置で結んだ男。

 夜空のような、透明感のある涼やかな瞳。


 紫水だ。

 笑っている。

 でも、どこか苦しそうに。寂しそうに。


 他の鬼たちは出て行った。

 家の中は、紫水だけになった。


 彼の口元を食い入るように見つめる。


『ミ カ ゲ』


 そう呟き、紫水は天を仰いだ。




「桃園くん」


 ハッ、と目を覚ませば、ドアの開閉音と駅への到着を知らせるアナウンスが耳に届く。


「うわ、俺寝てました?」


 慌てて立ち上がり、電車を降りた。


「熟睡してたね」


「すいません」


 駅の改札を抜け、駐車場に向かった。

 黄昏時の浜辺は静かで、誰もいない。

 どちらからともなく、指先を絡めた。


「さっき寝てる時、また前世の夢見ました」


 一瞬、皐月さんの指に力が籠る。


「どんな夢だった?」


「なんか音は聞こえなかったんですけど……誰かの家に鬼たちが集まって……それで、選ばれたって言ってて。でも、誰が何に選ばれたのかは分からなかったんですけど」


 彼は「そっか」と言ったきり黙ってしまった。

 ——皐月さんは、どこまで御影の記憶を持っているんだろう。


 車に乗り込むと、助手席に座っていた皐月さんが俺に覆い被さるように身を乗り出してきた。


「ビーチバレー勝ったご褒美、今欲しいな」


「えっ!?こ、ここ外だし、誰かに見られたら……家まで我慢できません?」


「誰も見てないよ——お願い」


 至近距離で乞うように見つめられれば、争う気力も失せてしまう。俺は目を閉じ、皐月さんの唇に自分のものをそっと重ねた。


 数秒のキスが、長い時間のように感じられる。

 離れようとした唇を追いかけてきて、また喰むように重なった。


「んっ……」


 静かな車内に響く吐息とリップ音が、頭の中を掻き回していく。

 なけなしの理性で彼の肩を押し留め、「も、おしまいです」と静止した。


 皐月さんは少し物足りなさそうな顔をして、肩を竦めて助手席に戻った。


 柔らかく湿り気をもった、唇の感触と熱。

 思い出すだけで、ぞくりと身震いがする。


(事故る!集中!運転に集中!)


 バクバクと悲鳴をあげる心臓の裏側で、脳内の俺が各々勝手に喋り始めた。


童貞の俺「キスだけでこんなに気持ちいいのならあっちの方はどうなんだろうか」

 

耳年増の俺「これだから童貞は。まあ皐月さんだって男だからそういう欲はあるんじゃない?」

 

純粋な俺「皐月さんって男と経験あるのかな?まあ俺はどっちも未経験ですけど!っていうか攻と受ってどうやって決めるの?じゃんけん?」

 

馬鹿な俺「ヤれば分かるんじゃね?」


(俺の馬鹿馬鹿馬鹿!!)


 ハンドルを軋むくらいに握りしめ、アクセルを踏み込んだ。

 不埒な考えで占められた頭でどうやって帰ってきたのか、ほとんど思い出せない。


 ポケットの中に仕舞い込んだ貝殻が、夏の熱を閉じ込めたようにじわりと暖かかった。

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