第23話 曖昧な関係性
翌日になっても、俺の頭はオムライスの上に乗ったたまごみたいにふわふわしていた。
(皐月さん、俺のこと好きなんだ)
一度認めてしまえば、もう覆せない。
皐月さんのことが、好き。
胸の中で何度も噛み締めるように、好きという二文字を呟いた。
「今日は出かけて夜遅くなるから、夕飯はいらないからね」
「分かりました。じゃあ、いってきます」
「行ってらっしゃい」
家を出る寸前に両頬を包み込まれ、ちゅ、と啄むようにキスをされた。
触れられた部分だけが、火傷したみたいに熱い。
階段を降りてマンションを振り返ると、皐月さんがベランダで手を振っている。
俺もそれに手を振り返し、歩きながら天を仰いだ。
前世では親友だった俺たちが、今世では ——そこまで考えたその時、俺はふと気が付いた。
(え?俺たち……付き合って……るの?)
皐月さんに、好きだと言われた。
俺も皐月さんが好きだ。
でも、付き合ってほしいとかは言われていない。
(キスしたしもう付き合ってるってこと?え、でも付き合うときは好きです、付き合ってくださいって申請するものなんじゃないの?俺がガキなの?)
三十代は、もうそういうステップを踏むような年齢じゃないってことなのだろうか。
恋愛の正しい順序が分からない。
ましてや、男同士だ。
でも、皐月さんは案外真面目だから、ちゃんとしそうな気もした。
信号待ちの歩道で足踏みをしながら、ぼんやり考えを巡らせる。
(俺たちの関係って、なんだろう。友人?同居人?それとも……)
「桃園先生、おはよう」
「うわああ!」
急に後ろから肩をぽん、と叩かれ、俺はその場で飛び上がった。
「び、びっくりした……服部先生、おはようございます」
「そんなに驚かなくても!こっちもびっくりしたわよ……」
「す、すみません。ちょっと考え事をしてて」
服部先生と並んで、保育園まで歩いて向かう。その間も、俺の頭の中は散らかっていて、一つも整理ができなかった。
駄目だ、一人で考えていても全然分からない。だって俺、恋愛偏差値3だもん。
「服部先生、今日早番ですよね」
「うん、そうだけど」
「ちょっと相談があって……仕事終わり、飲みに行きませんか?」
「いいけど。何?仕事のこと?」
「仕事じゃなくて……あの、プライベートのことなんですけど……」
ごにょごにょと濁していると、服部先生はにやりと口元を歪めて「よし、付き合おう」と笑った。
♢♢♢
仕事終わり、俺たちは二駅先の居酒屋に来ていた。
威勢の良い「いらっしゃいませ」と、ざわざわうるさい喧騒のおかげで緊張感もほぐれていく。
ビールと枝豆、出汁巻き卵に唐揚げ。居酒屋メニューがどんどん出てきて机の上に所狭しと並んだ。
「
「仕事は楽しいです。大変だしまだまだですけど、先生方もサポートしてくれてるので」
「そっかそっか。まあ頑張ってよ——で、本題のお悩み相談は?」
服部先生に話の流れを本題へと向けられ、慎重に言葉を選んで打ち明けた。
「あの、今実は好きな人がいて……あ、相手からは好きって言われてるんですけど、その……付き合ってるのかどうか分からなくて」
「え?そんなの聞いてみればいいじゃん。っていうか分からないって、なんで?」
「いや、相手が年上で……その、付き合って欲しいとかは言われてなくて」
「ええ?その人本当に独身?不倫とかじゃない?」
「それはないです!!」
服部先生は枝豆を口の中に放り込みながらうーん、と唸りだした。
馬鹿なこと言ったな、とビールを飲むと、口の中に嫌な苦みが広がる。
「踏み込んだこと聞くけど、キスとかそれ以上はしてるの?」
「……き、キスは、しました」
「相手何歳?」
「三十三歳です」
「三十三!?一回り年上か……そのくらいの年齢だと結婚出産考えるだろうから、普通は付き合うになるんじゃないの?」
「大人だと、そういうこと言わないものなのかなって……」
「だから確認がしたい、と」
「その通りです……」
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
唐揚げを頬張り、またビールを流し込む。
腹の底がそわそわして落ち着かず、つま先で何度か地面を叩いた。
「普通に、俺たち付き合ってますよね?って聞いたらいいんじゃない?」
「で、でもなんかそれダサくないですか?」
「ダサくないよ。自分の言いたいことはちゃんとお口にだして言おうねって、いつも子どもたちに言っていることでしょ」
痛い所をつかれ、喉がぐっと詰まる。
「桃園くんはどうしたいの?ちゃんと付き合いたいのか、曖昧な関係のままでいいのか」
「それは……」
「曖昧にするより、よっぽどいいでしょ。本気なら、きちんと向き合いなさいよ」
「……はいっ!」
俺の元気のいい返事に服部先生はくすっと笑って、グラスを向けた。
「若者よ 大いに悩め それが恋」
俺もグラスを持ち、静かにかちりと乾杯の音が鳴る。
(そうだ、帰ったらちゃんと皐月さんに聞いてみよう)
皐月さんなら、誤魔化したりしないで答えてくれるはずだ。
そう、思っていた。
その日皐月さんが帰って来たのは、深夜0時を過ぎた頃だった。
こんなに遅くまで帰ってこないのは、同居してから初めてだった。
(皐月さん、遅いな……大丈夫かな)
何度かスマホでメッセージを送ったが既読にならない。
心配で胸がざわざわしていた時、玄関から音がした。
「お帰りなさい」
「ただいま。あれ、まだ起きてたの?」
帰ってくるなり、皐月さんは俺をぎゅっと抱きしめた。
肩に顔を埋めて、深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「皐月さん?」
「ん?ふふ、ちょっと疲れたから」
首元に鼻を擦り寄せられるとくすぐったい。
俺も深呼吸をした。いつもの安心する匂いが鼻を通り抜けるのだと、そう思った。
——違う。いつもの匂いじゃない。
何の匂いだ?
なぜだか
水を含んだ土と、草木の匂い。甘く煮詰めた、花の蜜のような匂い。
心臓が脈打ち、匂いと記憶を細い糸で繋ぎ合わせようとした。
でも、糸は途中でぷつりと切れて、結局なんの匂いなのかは分からなかった。
この日俺は皐月さんに、何も聞くことができなかった。
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