第22話 全部忘れていいから

 皐月さんが、前世の記憶を思い出した。

 もう、終わりだ。

 

 その瞬間手の力が抜け落ち、持っていたたまごを床に落とした。

 たまごはグシャ、と鈍い音を立て、パックの中で中身をどろりと吐き出している。


 目の奥が沸騰したみたいに熱い。その場に崩れ落ちた俺は、両目から大粒の涙を溢して身を固くした。


「ごめ……ごめん御影、ごめんなさい……俺は、お前を……!」


「桃園くん」


 皐月さんの手がガタガタ震える俺の手を握るけど、泣きながら謝罪の言葉を何度も口にすることしかできない。


 最後の記憶がフラッシュバックして、御影と皐月さんの顔が重なった。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」


「桃園くん、落ちついて」


「御影、ごめん!俺が、俺が殺した……!」


「桃園くん!」


 両手で頬を強く掴まれ、ようやく皐月さんの顔が視界に入った。


 怒ったり、恨んでる顔じゃない。

 朝焼けの空の色みたいに、澄んだ優しさを含んだ瞳だ。


「君は紫水じゃない。僕も……僕も、御影じゃない」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、皐月さんは指でそっと拭った。


「さつ、き、さん」


 ひっく、としゃくりあげる嗚咽を飲み込む。

 浅い呼吸で胸が上下させていると、皐月さんは俺の後頭部に手を添え、優しく抱きしめた。


「君は悪くない。大丈夫だよ」


 彼の体に包み込まれると、張り詰めた糸が緩んでいく。

 温かい熱が俺の体にじわりと染みこんで、溶け合っていくみたいだ。


「俺、俺の腕が御影の胸を突き破るところまでは覚えてるんだ。でも、なんで御影を殺さなきゃいけなかったのか、その理由がどうしても思い出せない……」


 背中に回された腕の力が強くなって、息苦しさを感じるほどに彼の体と密着した。


「思い出さなくていいよ。もう忘れよう、全部終わったことだ。お互い平和な時代に生まれ直して、こうしてまた会えた。それだけで十分じゃないか」


「いい……のかな」


 思い出さなくていいのかな。

 忘れたままでいいのかな。

 許されていいのかな。


 いくつもの疑問が通り過ぎていく。

 前世を思い出したことは、なにか意味があるんじゃないのか。それが僅かに引っ掛かった。

 

「いいよ。もう罪悪感を感じる必要はない。全部、忘れていいから」


 その言葉で、自然と力が抜けていく。


 俺は皐月さんの背中に腕を回した。

 鼓動の音が重なって、温もりの心地よさにまた涙が一雫流れ出す。


「好きだよ、桃園くん。君のことが大好き。だから、どこにも行かないで」


 懇願にも似た、切実さを孕んだ愛の言葉が、心を溶かしていく。


「俺も……俺も、皐月さんが好きです」


 涙交じりの声でそう告げると、皐月さんは今にも泣きだしそうな顔で俺を見つめた。


 彼の親指が、俺の唇をつぅっとなぞる。そしてもう一度、重なった。

 今度は長く、余韻を楽しむかのように、離れてはまた近付いて触れ合う。


 もう、境界線は完全に混ざり合った。


♢♢♢

  

「皐月さん、前世の記憶はいつ思い出したんですか?」


「桃園くんと暮らすようになって、少しずつ夢を見るようになったんだ。紫水と御影が過ごした日々を」


 毎日同じ夢を繰り返し見る内に、自分が夢に出てくる御影なのだと気が付いたらしい。


 俺が紫水だという確証は無かったけど、時折見せる俺の挙動不審で、もしかしたら、と思ったと皐月さんは言った。


「俺と紫水って似てますか?」


「どうだろう。彼の優しい所や面倒見のいい所なんかは、重なる部分があるね」


「そっか……俺は、最初会った時にびっくりしたんです。記憶の中の御影とあまりにも似ていたから」


「そうかなあ」


「あの」


「ん?」


「お、俺はいつまで皐月さんの膝の上ですか……?」


 もうとっくに泣き止んだのに、俺は子どものように皐月さんの膝の上に座らされていた。背中側からお腹に腕をしっかりと回され、離す気はさらさら無さそうだ。


「桃園くんが逃げないって分かるまでかな」


「ヒェッ」


 耳元で囁かれて、思わず変な声が漏れる。

 そしてようやく俺は、皐月さんに「好きだ」と告げられたことを実感しはじめた。


(好きって、そういうこと?人としてとか友達じゃなくて……こ、恋人……ってこと?え、皐月さんはそっちなの?つまりこれって……)


「どこにも行かない?」


「い、行きませんよ。行く理由が無いじゃないですか」


 ようやく腕の力が緩み、体を動かす余裕ができる。俺は後ろを振り返って皐月さんを見上げた。


「俺、ここにいてもいいんですか?」


 許されたけど、まだ不安だった。

 皐月さんは目尻を下げて、蕩け切った甘い表情で笑った。


「ここにいて欲しいです」


「わ、分かり、ました……」


 深い沼にはまったように身動きがとれない。もがけばもがくほどに、底まで落ちていく気がする。


 そういえば、凛が言っていた。

 一度ハマれば、もう抜け出せないんだって。


 皐月さんは俺の心を読んだみたいに、「凛ちゃんに感謝ですね」と言って、にっこり笑った。


「凛?なんで……?」


「ボーイズラブって言うんだよね。僕、自分の中の感情がよく分からなかったんだけど、本を何冊かお借りしてこれだ、って気付いたんだ」


「はぁ!?本!?凛、皐月さんにBL本貸したんですか!?」


「面白かったから下巻読みたいんだけど、続きはお兄ちゃんに渡しましたって」


「いつの間に連絡先まで交換を!?っていうか、下巻!?」


 そういえば以前帰り際に薄い本を何冊か渡された。自室に走って戻って凛から渡された本を開いてみれば、美麗な男たちが裸で仲睦まじく絡み合う見開きページが俺の視界に広がった。


「桃園くん、あった?」


「これは駄目!駄目です!閲覧禁止ぃ!」


 慌てて後ろに隠そうとしたが、皐月さんの腕は長い。あっという間に本は奪われ、無常にも皐月さんの綺麗な瞳にBL本が映り込んだ。


(わあああああ!!)


「違!違うんです!俺は決してそういう趣味嗜好ではなく!凛が勝手に渡してきて!!」


「ふーん……なるほど」


 皐月さんはパラパラとページを捲り、何度か頷いたあとパタン、と本を閉じた。


「うん、分かったよ。参考になった」


「さ、参考?なんの?」


「ご飯にしようか。あ、でもたまご割れちゃったから、ビビンバは明日かな?」


「皐月さん、参考って何」


 リビングに向かう皐月さんを追いかけて、服の裾を掴んだ。

 振り返った彼は微笑を浮かべ、艶のある声で「知りたい?」と逆に問い返してきた。


 その色香が漂う眼差しに引き込まれた俺は、わずかに首を縦に振った。


 彼の口角が片側だけ持ち上がり、ゆったりとした動作で近付いてくる。


 軽くちゅ、と唇が触れ合う。


「まだ、内緒」


 耳元で囁かれた声で、腰が砕けそうになった。


 どくどくと波打つ鼓動が、全身に伝わり、血管を突き破って何もかもが噴き出しそうだ。


 ビビンバの予定だった夕飯は、たまごを贅沢に使ったふわとろオムライスになった。

 

 味は、全然分からなかった。

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