第21話 崩壊

 うちの保育園は、園庭が広いことが自慢だ。広々とした園庭にはツツジの花が満開に咲いている。

 

 子どもたちが楽しそうに走り回る笑い声や、砂を踏みしめる音。

 百日紅の木陰で、じっと蟻の行列を眺めている子。

 

 陽気もだんだんと初夏に近付き、毎日汗だく泥まみれになりながら、めいっぱい子どもだちと遊ぶ日々だ。


 午後のお昼寝の時間。

 通り抜ける風がカーテンを揺らし、寝相の悪い子のお腹にタオルを掛け直してやる。

 小さな寝息をBGMに、まだ目を開けている子の胸をとん、とん、と叩いた。


「ももせんせ」


「ん?どうしたの?」


 碧くんはタオルの端をきゅっと掴み、目を何度かこすりながらも言葉を続けた。


「あのさぁ、侑くんとけんかしてね」


 乾先生が仲裁に入り、お互いに謝って終わったと思っていた、給食前の出来事だ。


「なんか、胸がしくしくしてる」


「そっか……じゃあ、後でもう一回侑くんとお話してみようか?」


「んー……」


 また瞼がうつらうつらとして、今にも落ちてしまいそうだ。

 彼の額をそっと優しくなぞると、すっ、とまた眠りに落ちていった。


 (お話できるなら、いいよなあ)



 御影を殺したことも、この気持ちも、皐月さんには決して伝えることのできない、墓まで持っていく秘密だ。


 休憩中、スマホで物件情報を探した。

 もしもに備えて、できる限りの準備はしておかないと。


 工事が終わって隣室になっても、きっと何かと顔を合わせることは多いだろう。

 物理的な距離でも取らなければ、その内俺が俺じゃなくなってしまう。


 前世で死に別れた恋人同士だったなら、この再会も美談だったんだろうけど——俺と皐月さんは、前世で殺し合った親友同士なんだから。

 

 ♢♢♢


「……ただいま」


「お帰りなさい」


 キスをされたあの日以来、皐月さんは何も変わらない。


 やっぱりあれは寝ぼけていて、元カノなんかと間違えたんだろう。

 ささくれ立つ胸の痛みには気付かない振りをして、手にもったままのスマホを机の上に置いた。

 買い物袋の中の食材を冷蔵庫に閉まいながら、とりとめもない話をする。


「今日の夜はビビンバにしますね。ホットプレートでどんっと作ろうかな」

「肉屋いったらおばちゃんちょっとおまけしてくれて。切れ端多めにいれてくれたんです」

「あとたまごがお得だったんですよ、1パック198円!最近たまごも高いから助かりますよね……皐月さん?」


 いつもの楽しそうな相槌が返ってこない。

 たまごを持ったままリビングにいる皐月さんに視線を向けると、彼は机の上に置きっぱなしにしていた俺のスマホを茫然と見つめていた。


「皐月さん、どうかしました?」


「なんで」


「え?」


「なんで物件情報見てるの?」


 帰り道に、不動産屋の前に貼られていた物件情報を何枚か撮影した。

 そして、それを開きっぱなにしてスマホを置いてしまった。


 誤魔化す言葉が何一つ思いつかない。

 皐月さんはゆらゆら揺れる蝋燭の炎みたいな瞳で、俺を逃すまいと射抜くように見つめている。


 指先を動かすことも躊躇われるようなその視線に、俺はようやく声を絞り出した。


「あ……ほら、また同じような事故あったら困りますし。もしかしたらもっと良い物件あるかなって……あ、でも別に今すぐ引っ越すとかじゃなくて!」


 自分で言っていても呆れるくらい、白々しい台詞を並べ立てた。

 視線が泳ぎ、皐月さんから発せられる不機嫌な空気がびりびりと肌を突き刺す。


 なんで俺こんなに焦ってるんだろう。

 なんで皐月さん、こんなに怒ってるんだろう?

 

「僕がキスしたから、怒ってる?」


「……っ!覚えて……!」

 

 積み木の塔が、ぐらぐらと揺れている。

 あと指一本分の力があれば、いとも簡単に崩壊してしまう。


 全身が熱を帯びたように熱く震えた。

 息を吸っているのに、酸素が頭にまで届かない。


 皐月さんは一瞬俺から目を逸らし、苛立ったように前髪を乱雑に搔き上げて細く息を吐きだした。

 それからゆっくりと俺に向かって近付いてくる。


 後ろずさればすぐに台所の壁に腰がぶつかった。逃げ場は、ない。


「僕は、桃園くんが好きだよ」


 ドクン、と胸が痛いくらいに震えた。すぐ目の前に彼の顔がある。目を伏せ、顔を横に逸らした。

 

「お、俺も、皐月さんのこと好きですよ、友達だし」


 顎に指を添えられ、強引に視線を合わせられる。

 

「そういう意味じゃないって、分かるだろう」


「だ、駄目です……!」


「嫌(・)じゃなくて、駄(・)目(・)?何が駄目なの?男同士だから?それとも——前(・)世(・)が(・)あ(・)る(・)か(・)ら(・)?」


「——え?」


 耳を疑った。

 皐月さんの口から出た、前世という言葉。

 放心して彼を見上げれば、皐月さんはどこか遠い場所を見るような瞳でこう言った。


「紫水と、御影……だったかな」


「なん……で」


 喉が張り付いて、自分でも驚くほど掠れた声だった。

 指先がどんどん冷え、力が抜けていく。


「思い出したよ。僕たちは、遠い昔からの友人だった」


 皐月さんが前世を思い出した。

 それは、この関係の終わりを告げる合図だった。

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