第20話 正しく友人であるために
皐月さんの唇が重なった。
薄く開かれた瞼の間から、揺らめく紫色が覗く。視線が交差した瞬間、全身が甘く痺れて、どっ、と胸が震えた。
皐月さんは唇の端をきゅっと持ち上げて微笑み、またすぐに瞼を閉じて眠ってしまった。
(……え?)
キス初めてだったのに、とか。
寝ぼけていたのかな、とか。
誰かと間違えたのかな、とか。
いろんな感情をごちゃまぜにしてぐつぐつ煮込んだ鍋みたいになって、俺はようやく気が付いた。
皐月さんにキスされて、全然嫌じゃなかったということに。
叫び出したい衝動を、胸元を握りこみ必死に抑え込む。
(こんなの、気付きたくなかった……)
両手で顔を覆うと、頬は火傷しそうなほどに熱を持っていた。
(寝ぼけてたんだ。酔ってたんだ。忘れろ、忘れろ、忘れろ……!)
どのくらいの時間、呪文のように唱えていたのかは分からない。
カーテンの隙間から漏れる光の線が差し込むまで、自己暗示は続いた。
でも、もう気付く前には戻れなかった。
♢♢♢
次に目が覚めた時カーテンは全開で、部屋には明るい日差しが燦々と入り込んでいた。
(あれ、俺いつの間に……)
「おはよう、桃園くん」
皐月さんはもう着替えを済ませ、窓際の椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。どんな顔をすればいいのか分からなくて、視線をシーツの上に滑らせる。
「お、おはようございます……」
「昨日のこと、覚えてる?」
「へっ!?」
昨日のこと。どっちだ?
俺が言った発言なのか、キスのことなのか、どちらを指しているのかは分からない。
どちらにしても、この事実は闇に葬らなければいけないのだ。
俺たちが、
「ききき、昨日のこと!?すみません俺酒飲んで、なんにも覚えてなくて!俺、何か変なこと、やっちゃったり……?」
上手く誤魔化せただろうか。
どちらを問い詰められても、上手く切り抜けられる自信が無い。
平静を装ったつもりだけど、声は裏返っていた。
皐月さんは「そっか」と言ったきり、それ以上深く追求しなかった。
ホテルの朝食会場に向かう。
白いトレーを持ち、ビュッフェ形式で並ぶ料理を見て迷いながらゆっくりと進んだ。
スクランブルエッグやボイルソーセージ。
パンもいいし、ご飯とみそ汁もいいな。
昨晩酒を飲んだので、味噌汁が恋しくなった。
和風の総菜をメインに盛り付け、着席する。皐月さんもご飯にお味噌汁、焼き魚と和風メニューだった。
味噌汁を飲むと、五臓六腑に染み渡ってほっ、とする。
「やっぱり飲んだ次の日は味噌汁ですよね」
「いつもよりも、美味しく感じるよね」
大丈夫だ、昨日のことは、無かったことにできている。
隣人として、友人としての正しい距離感を保たなきゃ、もう一緒には暮らせないんだ。
(それは……嫌だな)
この同居生活も、残り二カ月だ。
最後まで、仲良く楽しく暮らしたい。
「外で食べるご飯も美味しいけど、僕は桃園くんが作るご飯の方が好きだな」
「ええ?俺の適当飯、そんなに気に入りました?」
茶化していると、皐月さんは目を細めて「うん、好きだよ」とまるで恋人に愛を告げるようなトーンで囁いた。彼の一挙一動に、心臓が喧しく反応する。
すると、皐月さんは一瞬何かを考えこみ、茶碗と箸を静かに置いた。
「工事が終わったら、元の部屋に戻る?」
「えっ……だ、だって、最初からその約束でしたし……」
その真剣な眼差しに、声が上擦る。
「僕は桃園くんと一緒に暮らすのがとても楽しいから、桃園くんさえよければ工事が終わってからも一緒に住めないかなって」
喉奥に溜まった言葉が今にも溢れだしそうだ。
俺も、皐月さんと暮らすのが楽しい。
この二カ月、一緒にいて本当に居心地が良かった。
この気持ちに気付く前なら、同居を続けていたのかもしれない。
「あ……でも、部屋の契約が、二年契約だし……途中で契約解除できるか分からない、から……」
言葉を濁して、ぼそぼそするご飯と味付けの濃いきんぴらごぼうを詰め込んだ。
俺、皐月さんのことが好きなんだ。
友達なんかじゃない。
なんでこんなにも友人の距離に拘っていたのか、ようやく分かった。
だって、好きになったって辛いだけだ。
皐月さんが前世の記憶を思い出さない保証なんて、どこにも無いんだから。
恋だとか愛だとか、今まで遠巻きに眺めていたような感情が、速度を持って落ちてくる。
それは俺たちが積み上げてきたささやかな日常という積み木の塔を壊してしまう様な、ある種の暴力性を秘めた隕石だ。
急に落ちてこられちゃ、避けることも叶わない。ビュッフェみたいに、手元に残しておきたい感情だけ選ばせてくれよ。
皐月さんは、「考えてみて」とだけ言って食事を再開した。
ビュッフェはいつも絶対に三周はするのに、お代わりを取りに行く力は湧かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます