第14話 遠い日の約束
ソファに隣り合って座ると、静かな部屋では呼吸音すらよく聞こえた。
雨は降り止むことなくザァーッと窓を叩き続け、ランタンの灯りが伏せた長いまつ毛の影を作りだす。
それから電気が復旧するまでの間、他愛もない話をした。
お互いを知るための、秘密の手紙を交換していくようなやりとり。
いつの間にか、恐怖も羞恥もどこかへと遠ざかっていた。
俺の頭の中が、両手いっぱいの花束を抱えたみたいに、皐月さんのことで埋め尽くされていく。
それが凄く、嬉しかった。
「じゃあ、好きなアイスってあります?」
「うーん、アイスクリームよりかき氷の方が好きです」
「そっか……じゃあ、夏になったらかき氷機買ってうちでやりましょうよ」
「うん、いいね」
彼はすっ、と小指を差し出した。
小指を絡め、子どもの約束みたいに「指切りげんまん」を口ずさむ。
歌声に乗ってまた一つ、遠い日の記憶が雨粒みたいに降ってきた。
まだ丸みを帯びた頬と、そう変わらない背丈。どちらが背が高いか競い合い、どんぐりの背比べだったあの頃。
『御影、どうしたんだその頬』
『大丈夫だよ』
『またやられたのか?クソッ、妖狐の里に行けたらお前を虐める奴を殴ってやるのに』
御影は、たまに体のどこかに痣を作っていた。頑なに言わなかったけど、里であまり良い扱いを受けていないことは明白だった。
妖力が高い故の恐れか、嫉妬か。
でも、御影は決して弱音も愚痴も溢さなかった。
ある時、俺は御影にお守りを作ってやった。
一番音色の涼やかな、銀の鈴。
鬼の里で一番器用だった俺は、桔梗色の糸で小さな総角を作り、それに銀の鈴をつけた。
『どうしても耐えられなくなったら、鈴を鳴らせ。どこにいても、駆けつけてやる。俺がお前を守ってやるからな。約束だ』
『ありがとう、紫水』
小さく細い小指を絡め、結んだ約束。
——その鈴が鳴ることは、一度も無かったけど。
そんな約束を交わすほど二人は固い絆で結ばれていたのに、どうしてあんな終わりを迎えてしまったんだろう。
(っていうか、前世の俺は男気あるやつだったんだな……今世の俺とは大違いだよ)
黙りこくってしまった俺を気にしたのか、皐月さんが俺の顔を覗き込んだ。
その距離の近さに、また胸がどくん、と大きく脈打つ。
心臓の音が聞こえる訳が無い。
頭では分かっているのに、誤魔化すように慌てて話題を探した。
「そ、そういえば!俺ずっと気になってたんですけど、皐月さんって香水使ってます?」
「ああ……これかな。ちょっと待ってて」
皐月さんはスマホの明かりを手に、洗面所からラベルのついた小さな小瓶を持ってきた。
黒いキャップを取って鼻をすん、と鳴らすと、いつも皐月さんから香る甘い匂いが鼻腔を通り抜ける。
「あ、これです!金木犀の匂い、ですか?」
「うん。昔から好きなんです」
「いい匂いですよね、秋の香りって感じで。これ、有名なブランドのやつですか?」
「蔵前にある、香りの調合のお店で作ってもらったんです。市販のものは合わなくて」
「へぇー。香水って自分で作れるんですね」
仕事柄、香水をつけることはないけど、自分の好きな香りを作れるのは楽しそうだし、少し憧れる。
「つけてみますか?」
「え、いいんですか?」
皐月さんは俺の手を取り、さっと吹きかけてくれた。手の甲についた香りを、首に擦るようにしてつける。
「あ、やっぱいい匂い……」
すると、皐月さんの顔が引き寄せられるように俺の首元に近付いた。
(えっ)
息を吸い込む音が耳のすぐそばで聞こえた瞬間、ぶわっと全身が熱くなる。
「うん……いい匂い」
この声を何かに例えるなら、喉が渇く程の、完熟した果実を煮詰めたような甘さ。
目の前がクラクラする。
雨音だけが響く静かな部屋で、その声が俺の心をかき乱していく。
積乱雲が去ったのか、いつの間にか雷の音は止んでいた。ぱち、と電灯がつき、部屋が一気に明るくなる。
「あ、戻りましたね」
「はぁ、よかった」
一時間程度の停電だったから、冷蔵庫の中身は無事だろう。夕飯の支度のことを考えていると、皐月さんは俺の顔をじっと見つめ、口元を歪めて笑った。
「怖かったら、今夜は一緒に寝ようか?」
「えっ!?いや!大丈夫です!俺大人なんで!一人で寝れます!!」
「そっか、それは残念」
(残念?今この人、残念って言った?)
血の巡りが良くなるのを全身で感じる。
唇を震わせて次の言葉を探していると、彼はまた何食わぬ顔でさも名残惜しそうに仄めかした。
「同じ部屋で寝るの、なんだか旅行みたいじゃないですか?」
「あ、そういう、意味ですか……」
「え?他にどんな意味が」
「溶けそうなので、アイス食べますね!」
バンッと強めに冷凍庫の扉を開けた。
今のは皐月さんが悪くないか?
「なにか怒ってます?」「怒ってません」の応酬が何度か続き、そのうち馬鹿らしくなって気が抜ける。
「もういいですよ……」
カップのバニラアイスを一口食べると、ひんやりとした甘さが舌に染み込んでいく。忙しなく騒ぎ立てていた体の熱が、ようやく引いた。
「それ美味しい?」
「え?美味しいですよ。一口食べます?」
長年の癖というものは恐ろしい。
つい弟や妹にするように、俺は無意識に彼の口元にスプーンを差し出していた。
「あっ、すいません、いつもの癖で……!新しいスプーン取ってきま……」
引こうとした手を掴まれ、彼は小さく口を開いてスプーンに乗ったアイスをパクリと食べた。
唇の隙間から覗く赤い舌が妙に艶めかしくて、指の力が抜ける。
スプーンがカシャン、と音を立てて床に滑り落ちた。
「美味しいですね。アイスクリームも好きになりそう」
「そ、そうですか……」
皐月さんは平然とした顔で笑っている。
動揺している自分の方がおかしいのかと思うほどだ。
友達って、なんだっけ。
どこからどこまでが友達なんだっけ。
曖昧になった境界線は、ぐにゃりと歪み始めている。
俺のつま先は、まだ境界線の内側なのだろうか。
ホラー映画の恐怖は頭からすっ飛び、その日俺は、違う意味で眠れない夜を過ごした。
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