第15話 友人の最適距離は

「昨日区内で不審者情報がありました。黒い帽子とパーカーにマスク姿で、下校中の女子児童に付き纏っていたということです」

 

「ふわあぁ……」


 職員室での朝礼後、大きなあくびを一つして、乾先生に笑われた。


「凄い欠伸だねぇ。昨日、眠れなかった?」


「あ、すみません……ちょっと寝付けなくて」


「なになに、悩み?困ったことあったら聞くから言ってよ」


「ありがとうございます、でも大丈夫ですよ!」


 こんな悩み、誰にも言えない。

 二十年生きてきて、自分の恋愛対象が曖昧になりかけているだなんて。


 しかもその相手が前世からの親友(♂)で今世での同居人(♂)だなんて!


 俺は弄ばれているのだろうか。

 いや、皐月さんに限ってそんなこと。


 そもそも、俺の恋愛対象は女の子だ。

 初恋は小6の時で、近所に住んでいた二つ年上の美冬姉ちゃんだし、高校の時は一組の相澤さんがいいなって思ってた。


 テレビに映るアイドルや女優を普通に可愛いと思うし、男を見て胸がときめいたりはしない。


(うん、俺はノンケ。皐月さんは、友達。あの人、ちょっと距離感がおかしいだけだ)


 暗示をかけるように自分に言い聞かせる。

 距離感、大事。

 大人なんだから、勘違いしたら馬鹿みたいだ。友達としての最適距離を保つこと。

 

 今ならきっと、まだ戻れる。

 

 ♢♢♢


「ただいま」


「お帰りなさい、桃園くん」


 家に帰ると、いつも皐月さんが出迎えてくれる。いつしかその声にホッとする自分がいた。


「今日の夜ご飯、焼きそばにしますね……あ、青のりがない!ちょっと俺買ってきます」


「青のりなくてもいいよ?」


「いや、焼きそばには青のりが絶対必要です!」


 俺は財布だけ持って、近くの小型スーパーへと向かった。



「よし、青のりも買えたし急いで帰ろ……あ、雨だ」


 手早く買い物を済ませて店を出ると、鼻先にポツリと落ちた雨の雫。

 急げば本降りになる前には帰れるだろう。


 公園内の遊歩道を突っ切ると、マンションまでの近道になる。霧雨が髪を濡らすのを鬱陶しく感じていると、前方に人影が見えた。


 黒いパーカーを着た細身の男と、その前を歩くスーツを着た女の人。


 徐々に二人の距離が詰められていく。

 男の歩き方がおかしい。なんだかふらついていて、嫌な雰囲気だ。


 男の左手がポケットに突っ込まれた。


 男が女の人の肩をつかんだ瞬間、俺は「おい!」と声を張り上げていた。


 甲高い悲鳴と、靴が地面を蹴る音。

 男が振り上げた左手に握られているのは——ナイフだ。


 咄嗟に俺は体ごとその男に体当たりをしていた。


「逃げて!」


 恐怖に歪む女の人を一瞥して男を睨む。


 男は血走った目でこちらを威嚇するように舌打ちをした。地面に転がる獲物を握り直し、ゆらりと立ち上がる。


「邪魔すんなよ……殺すぞ」


 呼気は酒臭く、どろりと濁った視線からは話が通じる相手だとは思えない。俺は人生で初めて化け物のような人間を目の当たりにした。


(どうする。こっちは丸腰、相手はナイフを持ってる。保育園の不審者訓練は刺股があるけど……!)


 俺の背後には、まだ膝を震わせ立てないままの女性が地面に座り込んでいた。


「早く逃げて下さい!それから、警察も呼んで!」


「は、はい!」


 女性の後を追いかけようとする男の腕を掴み、必死に取り押さえる。


「離せ!刺すぞ!」


「は、離したらあの女の人追いかけるでしょう!」


 揉み合っているうちに、ナイフが右肩を掠めた。焼け付くようなビリビリとした痛みが走る。


「……っ!」


 肩を抑えて後ろずされば、背中が木にぶつかった。


「クソッお前のせいで台無しだ!ブチ殺してやる!」


 ナイフが大きく振りかぶられ、切先がギラリと光った。

 逃げなきゃ、と思うのに、足が動かない。


(あ、死ぬかも)


 その瞬間、思い浮かんだのは家族。


 母さん、ごめん。二回目の喪主をやらせてしまう。

 妹たちと弟たちの顔。

 保育園の先生や子どもたち。

 

 それから——皐月さん。


 やりたいことリスト、まだ全然出来てない。

 やり残したことがたくさんあるのに、皐月さんを置いていってしまう。


 ごめん、皐月さん。

 約束守れなくてごめんなさい。


「……っ!!」


 目を固く閉じ、身構えたその直後。


 パトカーのサイレンが徐々に音量を上げて近付いてくる。


 それに気付いた男は舌打ちをして、その場から走って逃げていった。


「た、たすかった……?」


 腰が抜けて、その場に座り込んだ。

 地面に着いた手はがくがくと震えている。

 その後駆けつけた警察官に助けられ、病院と事情聴取で帰れたのは22時を回った頃だった。


 ♢♢♢


「はあ、遅くなっちゃった。皐月さん心配してるだろうなぁ」


 すぐ帰るからとスマホを置いてきたのは失敗だったな、と思いながら歩いていると、傘も差さずに走る人影があった。


 一瞬、身構えたが、街灯がその輪郭を照らし出せば緊張が解けていく。

 

「桃園くん!」


「皐月さ……」


 持っていたビニール傘が地面に転がり、その上で雨粒が踊るように跳ねている。


 皐月さんは息を荒くさせ、強く俺を抱きしめた。髪は濡れて、雫が滴り落ちている。


 背中に回された腕は、震えていた。


「はぁ、はぁ……いつまで経っても帰って来ないから、事故にでも合ったのかと……!」


「あっ、すみません俺スマホ置いて……」


「一体何があったんですか」


「えっと、話せば長くなるんですが……いてっ!」


 皐月さんに抑えられた右肩がピリッと痛む。


「怪我したの!?」


「だ、大丈夫ですちょっと掠っただけで……とりあえず家に入りましょ、ね」


 苦しそうに顔を歪める皐月さんは、黙って傘を拾い上げた。

 

 これは、ただの隣人の顔ではない。

 でも、それをうまく言葉にすることができなくて、痛む右肩を抑えて歩き出した。


 ガチャン、と閉まった玄関の音がやけに大きく響く。

 皐月さんはずっと押し黙ったままで、張り詰めた横顔が恐ろしいと思うくらいの冷たさを感じた。


 濡れた靴下が気持ち悪い。

 早く風呂入りたいな、なんて考えながら洗面所に向かうと、皐月さんが玄関で立ち尽くしているのが視界の端によぎった。


「皐月さん?先に風呂入ってきて下さいね、風邪引きますよ」


 返事は返ってこない。


「皐月さん……?」


 タオルを片手に、おそるおそる、彼に近付いた。

 皐月さんのガラス玉みたいな瞳から、頬を滑るように雫が流れている。


「な、なんで泣いてるんですか!?」


 狼狽した俺は、慌てて皐月さんの頬を拭った。

 彼の瞳はただ俺だけを視界に映して、壊れたように涙を流し続けている。


 その悲壮な顔が、俺の庇護欲をざらりと刺激する。気が付けば俺は皐月さんの顔を自分の肩に埋めさせ、そっと抱きしめていた。


「大丈夫ですよ、大丈夫です。ちゃんと俺帰ってきたじゃないですか……」


 皐月さんは、俺よりも大きな体を小刻みに震わせ、縋るように背中に腕を回した。


 依存。

 執着。

 愛着障害。


 保育の講義で習った単語の羅列が頭の中に浮かび上がる。そのどれもが当てはまるようで、ずれているような気もする。


 初めての友人だから、ここまで固執するのだろうか。


 でも、今は声を殺して泣き続けている皐月さんが安心できればいい。友人でも、きっとハグくらいはするだろう。


 ハグすると、オキシトシンが出てストレスが軽減する効果があるんだ。だから、今の俺たちには一番理に適っている方法。


 ただ、それだけだ。

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