第12話 滲む偏愛
三日後。
完全復帰した俺は、保育園に出勤していた。
「お休みいただいて申し訳ありませんでした!今日からまたよろしくお願いします!」
頭を下げると、先生たちは気にも留めない様子で「はい、宜しく!」とさっぱりした返事が返ってきた。
「社会人 体調管理も 仕事のうち」
後方からボソリと俳句が聞こえて肩が跳ねる。服部先生にぽん、と肩を叩かれ、「ほら、子どもたちが待ってるよ」と促された。
高月齢グループの部屋に入ると、「ももしぇんせー」という可愛らしい声が聞こえる。
子どもたちがわらわらと寄ってきた。
「わあ、みんな久しぶりだね」
「ももしぇんせ、あっち」
「みてーももせんせー」
ああ、嬉しいけど体が足りない。分裂したい。
早速余裕を無くしていると、服部先生と乾先生は笑顔で保育をして、登園してくる子どもを受け取り、泣いている子を宥めながら別の子の話を聞いている。
(保育士さんは凄い職業だよ!全員千手観音と聖徳太子!)
自分はまだまだその域には到達できなさそうだ。
一日は瞬く間に過ぎ、終業時間を過ぎて保育園を出たその足で商店街に向かった。
「はあ、今日も忙しかった……」
ため息をついて今日の夕飯をどうするか考えていると、ポケットに入れているスマホが震えている。
着信だ。誰だろう。
スマホに表示されたのは、妹の凛だ。
「もしもし、凛?どうした……」
「お兄、たすけて」
「っ!どうしたんだ!?今どこに……」
「今、秋葉原で……」
そこで通話は切れた。
頭の中にとてつもない勢いで嫌な想像が過ぎる。
俺は走って駅に向かい、電車に飛び乗った。
♢♢♢
秋葉原駅。
改札を通過して、人混みの間をすり抜けながら凛を探す。すると、駅前のポストの横に、膝を抱えて座り込んでいる妹を見つけた。
「凛!」
「あ、お兄……」
俺に気付いて顔をあげた凛の肩を掴む。
「何があったんだ!?大丈夫か!?」
「……ごめんなさい」
眼鏡の奥の瞳が震えている。
次の言葉を聞くのが恐ろしくて身構えていると、凛が背負ったパンパンのリュックに気が付いた。
「お前、まさか……」
「最後の一冊だったから……だから……!」
話を聞けば、同人誌を買い漁り、帰りの電車賃まで使い果たしただけという実にお粗末な結末だった。
「またこんなに同人誌買って、家の床抜けるぞ!」
「だって、これを逃したらもう手に入らない……」
凛は、いわゆる腐女子だ。
普段真面目で、家事や弟の面倒も見てくれるしっかり者の長女なのだが、趣味のことになると理性がどこかにふっ飛んでしまうのが玉に傷だ。
「もー、兄ちゃん心配したんだぞ!あんな電話で通話も切れるし、何かあったのかと思うだろ」
「充電も切れちゃった。面目ない……」
反省しているようだから、小言はこの辺にしておこう。
財布からお金を取り出し、渡してやる。
「ほら、電車賃。気を付けて帰れよ」
「ありがとう、バイト代入ったら絶対返すからね」
「いいよ、ちゃんと真っ直ぐ帰れよ」
秋葉原の駅に向かうと、喧騒の中に低い声でアナウンスが流れた。
「現在湘南新宿線は倒木の影響により運転を見合わせております。運転再開の目処は立っておりません。ご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ございません」
「嘘ぉ……」
「困った、帰れない……」
俺はスマホで皐月さんに電話を掛け、次に母親にも電話をして事情を説明した。
♢♢♢
「本当にすみません……」
「全然いいですよ。初めまして、皐月環です」
「すみません、一泊ご厄介になります。桃園凛です」
今夜は凛を家に泊めることになった。明日は休みだし、今日は餃子にでもするか。
「凛、餃子作るから手伝って」
「了解」
実家でもよく二人で台所に立っていたので、味付けも任せられるのは頼もしい。キャベツと白菜、ニラを刻み、凛が捏ねていく。
「餡出来たよ」
ダイニングテーブルの上に。餃子の皮と餡が入ったボウルを置いた。
「よし、包むか。あ、皐月さんもやりますか?」
「餃子作るの、初めてです」
俺は皐月さんの横に座り、餃子の包み方を皐月さんに教えた。
「餡を真ん中に置いて、指で周りに水をつけて……それでこうやってひだを作ります」
「……うーん、難しい。綺麗なひだが出来ないな」
「大丈夫ですよ、食っちゃえばおんなじですから」
向かいに座っている凛は目を皿にして、穴が開きそうなくらい俺たち二人を凝視していた。
「……凛、なに」
「尊い」
「はぁ?」
「いや、絵面が良くて……」
「おい、今何を考えたんだ辞めろ」
まさか、俺たちをそういう目で見たのか?皐月さんに対して不遜すぎるだろ。
俺は「余計なことを言うなよ」という視線を凛に向けた。
「あ、桃園くん」
ふいに皐月さんの指の第二関節が俺の頬に触れた。
「へっ」
「粉がついちゃってるよ」
パンッと破裂音がした。
凛の眼鏡にヒビが入っている。
「ああ、また一つ眼鏡が死んだ……」
「なんで割れるんだよ眼鏡!」
「眩しさに耐え切れなくて……そろそろオタクの為の強化ガラスを使った特殊な眼鏡が開発されても良い気がする」
「面白い妹さんですね」
「いいから!早く餃子包んで!!」
恥ずかしさのあまり未だかつてない速度で餃子を包んだ。
皐月さんの餃子は少しだけ不格好で、たまに餡がはみ出しているものもあった。
それが微笑ましくて、ふっ、と口元が緩んだ。
♢♢♢
風呂を上がってリビングの扉に手を掛けようとした瞬間、凛と皐月さんの会話が聞こえた。二人の意味深な会話の続きが気になって、完全に開けるタイミングを逃してしまう。
「皐月さんって、お兄のことどう思ってるんですか?」
「どう……って?」
「普通、初対面の人を家に住まわせるかなって」
「はは、怪しまれてるのかな」
いや、それは確かに俺も考えたことだ。
いくら困っているとはいえ、普通初対面の男に部屋を貸すだろうか。
「皐月さんの恋愛対象って、どっちですか?」
「どっち……それは今まであまり考えたことがなかったですね」
どっちとも取れるような、曖昧な躱し方。
天然なのか、計算なのか、判別ができない。
「そうだね……桃園くんは僕の初めての友人で、良き隣人ですよ。だから——ずっと一緒にいたいですね」
その言葉に、息が止まった。
友愛にもとれる言葉だろう。
でも俺は、言葉尻に滲んだどこか偏愛めいた影を見逃せなかった。
足元に絡みつく蔓のように、汚泥に染み込む雨のように。
静かに浸食していく気配が潜んでいる。
俺は、まだ皐月さんという人のことを何も知らないのだということに、今更ながら気が付いた。
ガチャリ、と扉が開き、視線が交差する。
「あ」
「お風呂、入ってきますね」
「ど、どうぞ……」
狭い廊下で、肩が触れそうな距離ですれ違う。その瞬間、背筋がぞくりと痺れた。
洗面所の扉が閉まったのを確認すると、細く息を吐き出す。
「凛、もう寝るか……ってその鼻どうした!?」
凛の鼻には白いティッシュがこれでもか、というほどに詰め込まれていた。
「大丈夫、血は流れたけど精神面ではプラスだから……やっぱり時代は激重執着攻め」
「なんて?」
ぶつぶつ呟く妹の独り言は、ほとんど何を言っているか聞き取れなかった。
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