第11話 胸の痛みの理由は

 朝目が覚めると、喉の痛みを感じた。

 額に触れると、いつもよりも明らかに体温が高い。


「これは、嫌な予感がする……」


 体温計を脇に挟み込み、祈るような気持ちで電子音が鳴るのを待つ。

 熱は、38.5度。

 発熱 ——つまり、仕事にはいけない。


「嘘だろ……」


 風邪を隠して出勤しても、子どもたちにうつして余計に迷惑をかけるだけだ。

 俺は保育園に電話して、咳き込みながら平謝りするしかなかった。


(朝ごはんどうしよ……)


 少しくらい体調が悪くても、なんとかなる。今までだってそうしてきたんだから、今日だって大丈夫だ。

 気怠さを我慢して、重たい体で部屋を出た。


 マスクをして台所に立つ俺を見て、皐月さんは怪訝そうな顔をした。

 

「あれ、桃園くんどうしたの?お仕事お休みですか?」


「はい、ちょっと風邪引いちゃって……あ、朝ごはんもうすぐできるので、ちょっと待っててくださいね」


「はっ!?な、なんで風邪引いてるのに料理してるんですか!?」


「あ、マスクは二重だし、ビニール手袋もつけてるから感染対策はバッチリ……」


「病気になった人間は普通休むか病院に行くものでしょう!」


 熱で働かない頭で「今の怒り方は御影っぽく無かったなあ」なんて考えていると、肩をぐいっと引き寄せられた。


「熱は何度あるんですか」


「え、えっと……さっき測ったら38.5度で」


「重病じゃないか!」


 そのままソファに連れて行かれ、座るように促される。その傍らで、皐月さんは病院の予約やタクシーの手配までこなしていた。


「皐月さん、タクシーなんかもったいないですよ。俺、歩けますから」


「僕がおぶっていくのとタクシーに乗るの、どちらがいいですか?」


 有無を言わせない微笑み。

 選択肢は最初から与えられなかった。


 数分後にタクシーがマンションのエントランスに到着した。

 車に乗り込むと、皐月さんは「少しかかるから寝ていなさい」と肩にもたれ掛からせてくれた。


 ここまでしてくれなくていいのに。

 ああ、でも誰かに面倒をみられるなんて、なんだか変な感じだ。


 車の振動で瞼が重たくなっていく。

 とぷん、と沼に沈み込むみたいに意識が落ちた。


 ♢♢♢


 診察室で鼻の穴をぐりぐりされて、涙が滲む。大人でも痛いんだから、子どもにとっちゃ拷問だろう。泣き叫ぶ声が奥の診察室からBGMみたいに聞こえてくる。

 

「インフルエンザは陰性だね……保育士さんなの、曙保育園?あー、じゃあRSかな。今流行ってるから」


 病院で診断を受けた俺は、RSでお休みしているこどもたちの顔を思い浮かべた。

 くしゃみも鼻水も飛ばされたから、がっつり濃厚接触だ。


「保育園は病気のデパートだからねぇ。大人がかかると案外辛いから、お大事に」


 診察室を後にすると、待合室では皐月さんが落ち着かない顔でそわそわしていた。


「桃園くん、大丈夫?」


「あ、大丈夫です。園の子どもの風邪、うつっちゃったみたいで……」


 熱で弱った体は、思った以上に消耗していた。つま先がつんのめって、体がぐらりと揺れる。


(あ、転ぶ)


 朦朧とした頭が床と激突する寸前、彼が体を受け止めてくれた。

 ふわりと香る、森の中にいるような深い安息感と、甘い匂い。


 皐月さん、いい匂いがするなぁ。

 どこの香水使ってるんだろう。きっと凄く高い、ハイブランドのものだろうなぁ。


「皐月さん……どこの香水、使ってます……?」


 熱に浮かされ口走ったどうでもいい質問を最後に、俺は彼の胸に身を委ねたまますっと目を閉じた。


 ♢♢♢


 あ、また夢を見ている。

 ここは、滝の上の岩場。

 紫水が、遠くを見つめている。


 視線の先は——あれは、妖狐の一族?


 花嫁行列の中に、御影がいる。黒い紋付羽織袴を着た御影は、凛々しい面持ちで白無垢を着た花嫁と歩いていた。


 そうか、これは御影の結婚式。

 御影には奥さんがいたんだ。

 胸がぎゅっと捩れるように痛くなる。


(え?なんで胸が痛いんだ?親友の結婚式だろ?めでたいことじゃないか)


 もう一度花嫁行列見た時、そこにいたのは御影じゃなくて、皐月さんだった。

 心臓を一突きされたみたいに、ズキン、と胸が痛む。思わず胸元を爪が白くなるほど握り込んだ。

 

「……いや、だから!なんで胸が痛いんだよ!」


 自分があげた大声で目が覚めた。

 見知った天井の色。

 皐月さんの家の、俺の部屋。


「あれ、俺……」


 全身汗だくで、タンクトップが背中に張り付いている。

 さっきまで病院にいたはずなのに、家までどうやって帰ったのか記憶がない。


 ぼんやりとして寝返りを打つと、部屋の扉が開いた。

 

「あ、目が覚めた?」


「皐月さん……もしかして皐月さんが運んでくれました?」


 ふっ、と微笑まれたのが肯定だと理解して、カッと目の奥が熱を帯びた。


「すみませ……俺、物凄く迷惑を……」


 声が震えて上手く話せない。

 涙の膜が視界を歪ませていく。


 駄目だ、しっかりしないと。

 俺長男なのに。

 もう、大人なのに。


 ひやりとした指先が額に触れる。

 皐月さんは俺の額の汗を拭って前髪を優しく掻き上げた。


「大丈夫だよ、すぐによくなる」


 その手つきが、小さな命を慈しむような、そんな温もりを感じさせる触れ方だった。


(皐月さん、なんでこんなに優しいんだろう)


 頭を撫でられるだなんて、子どもの頃以来だ。その触れ方が心地よくて、今この瞬間だけは幼い子どもに戻ったような気分になった。


「何か食べますか?お粥とゼリーと、アイスもあるよ」


「ありがとうございます……あ、その前に着替えたい」


 俺は起き上がって、汗で張り付いた上半身のスウェットを脱いだ。外気が触れて少し肌寒く感じる。

 脱いだ服で汗を拭っていると、皐月さんの視線が俺の肩あたりに注がれる。


「その肩、どうしたの?」


「え?肩……?あ、これですか?」


 俺は右肩の青痣を指差した。


「転んだ時にぶつけちゃったのかな」


「違いますよ。これは生まれた時からあるんです」


 生まれつき、右肩にある青痣。蒙古斑みたいなものなのだと医者には言われていた。男だし、特別気にしたこともなかった。


「そうなんだ。怪我じゃなくてよかった」


 皐月さんが労るような眼差しを右肩に向けた。

 そして、そっとなぞるように痣に触れた。

 触れられた部分が、溶け出しそうなくらいの熱を帯びる。


「花が咲いてるみたいですね」


 間近で視線が交差する。

 糸で結ばれたように、逸らせない。

 数秒ほど無言で見つめ合い、彼は「お粥、温めてきますね」と言って部屋を出た。


 熱のせいか、夢のせいか。

 隣の部屋から鳴り響く工事の音が、静かな部屋でノイズみたいに聞こえる。

 俺はしばらく布団から動けなかった。


 皐月さんが作ったお粥は少しだけ焦げて香ばしくて、優しい味がした。

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