第7話 いつか桜の下で宴を
青いギンガムチェックに、くまのアップリケがついたエプロンをつけた俺は、緊張した面持ちで保育園の職員室に立っていた。
「桃園涼太です!よろしくお願いいたします!」
明るく元気に挨拶をして、今日から俺の保育士としての人生が幕を開ける。
俺は二歳児クラスの高月齢グループを担当することになった。
ベテラン担任の乾先生に連れられ、二歳児クラスに入る。
短い手足に丸い頬。
可愛さで息が止まりそうだ。
「か、可愛い……」
「桃園先生は子ども好きなんだね」
「はい。俺6人兄弟の長男なので、下の子の世話とかはずっとやっていて」
「好きだけで できると思うな プロ保育」
「えっ」
突如後方から聞こえた声の主は、低月齢グループの担任の服部先生。
眼鏡の奥の瞳が厳しく光ったような気がする。
手厳しい俳句を読まれた俺は、知らなかった。
家で兄弟の面倒を見るのと保育園で園児たちを保育するのとでは、その重みが違うのだと。
「ぎゃあああんっ!」
「あっおむつ、おむつ変えようねえ、えっ莉奈ちゃん抱っこ!?ちょっと待ってねえ!」
なぜ俺の腕は二本しかないのか。
高月齢グループは9人。先生は2人。法律に基づく人数配置だ。
なのにどうしてこんなに余裕がないんだろう。
「桃園先生、焦らないでね」
「は、はいい!」
勤務初日の昼休み。
俺は抜け殻のように机に突っ伏した。
(実習の時の方がもう少し上手くやれた気がする……)
緊張と、絶対に失敗してはいけないという責任の重さ。
分かっていたはずなのに、早速大きな壁にぶつかった気分だ。
その日は早番で、なんだか憂鬱な気持ちを抱えたまま勤務初日は終わった。
♢♢♢
連勤5日目。
俺の新社会人としての矜持は、ぽきりと折れそうだった。
「ただいま……」
「お帰りなさい……なんだか元気ないですね」
「俺は仕事ができないフナムシです……」
「本当にどうしたの」
連絡帳を間違えて渡す。
給食をひっくり返される。
着替えの途中に脱走される。
連鎖していく子どもたちの泣き声という大合唱。
どれもこれも決定的なヒヤリハットではないけれど、地味に精神を削ってくる。
小さく降り積もる失敗は数え上げればキリがない。
そろそろ服部先生に辞世の句を詠まれる気がする。
「新社会人の辛いところですね」
「うう、人の優しさが身に沁みます……」
明日は休み。それなら社会人のやることはただ一つだ。
「皐月さん、飲めます?」
「飲めます」
「今日は花金です!」
こんな日は酒でも飲んでぱあっといきたい。
それに合う飯は……よし、決めた。
「まずは米を炊きましょう。皐月さん、お米炊けますか?」
「米くらいは炊けますよ」
「洗剤で洗うとかのギャグはやらないでくださいね」
「流石にそれは……」
今時それはないか。安心して任せたが、皐月さんは俺の予想の斜め上を越えてきた。
「……皐月さん、なんで泡だて器持ってるんですか?」
「え?こっちの方が洗いやすくないですか?」
「え?ボケてます?」
「「え?」」
真面目な顔をして泡だて器を持つ皐月さんが面白すぎて、俺は腹を抱えて笑った。
「さ、皐月さんそのボケはさすがに……!」
笑いすぎて目尻に涙まで滲む。
ひとしきり笑った後に皐月さんを見上げると、彼はまるで子どもを愛でるような優しい視線を向けて微笑んでいた。
「元気でましたね」
「わざとボケてくれたんですか?」
「いや、これで洗う気でしたよ」
首を傾げた皐月さんと顔を見合わせて、もう一度噴き出す。
一人暮らしだったら、きっとこんな楽しい休み前にはならなかっただろう。
キャベツ、玉ねぎ、さつまいも、鶏肉を一口大の大きさに切り、ホットプレートで焼いていく。ごま油の香ばしい香りが食欲をそそり、具材の真ん中を開けてチーズを入れた。
ご飯が炊ける電子音が台所から鳴り、ホットプレートの蓋を開ければ甘辛い匂いがふわりと広がった。
「わ、旨そう!」
「桃園くんはビール飲める?レモンサワーもあるよ」
「じゃあレモンサワー頂きます!」
食卓につき、プルタブを引っ張るとプシュッと炭酸が抜ける音がした。
「「いただきます」」
肉にチーズをたっぷり絡めて米と一緒に頬張る。
甘辛い味がご飯によく合い、レモンサワーを飲めば口の中がすっきりして無限に食べられそうだ。辛みでじんわりと汗をかき、袖をまくった。
「やっぱストレスには辛いものですよね」
「仕事、大変ですか?」
「やりがいはあるけど、自分の技量がついていかなくて。後から考えればあの時もっとこうすればよかったって後悔することばっかで」
皐月さんは黙って静かに俺の話を聞いてくれた。
「でも失敗も経験ですよね。いや、大事なお子さん預かってるから失敗しちゃダメなんですけど!」
「どうして保育士さんになろうと思ったの?」
「ああ……俺、中学の時に父親亡くして。それで弟のお迎えとか保育園に行くことが多くて。その時の園長先生の言葉がずっと心に残ってるんです」
母がいい、とぐずる弟たちを抱えて送迎する中学生は、目立っていただろう。
園長先生はそれとなく俺を気にかけてくれた。
『長い人生の中で、保育園の生活や先生のことはいつか忘れてしまうと思うの。それでも、子どもたちの心の根っこの部分を育ててあげることができる。それが、保育士のお仕事よ。忘れられても、ずっとずっと心の養分になっているの』
その言葉は、当時余裕の無かった俺の心に染み込んで、ずっと奥底に残り続けていた。
「弟妹が多かったから小さい子は好きだし、なんかいいなぁと思ったんですよね。見えない部分で人を育てていくっていうのが。自分が誰かの糧になるっていうか……」
皐月さんは一瞬目を見開き、そして口元を緩ませて微笑んだ。
「桃園くんは、頑張ってますよ。きっと、いい先生になる」
それは、屋根から地面にとさりと落ちる雪の塊のように、静かで、それでいて重みのある言葉だった。
「あ、ありがとうございます……」
少しだけ泣いてしまいそうになったのを知られたくなくて、レモンサワーを一気に煽る。
ずっと頑張ることが当たり前だったから、そんな風に手放しで頑張りを認められるのは、本当に久しぶりだったんだ。
食後、すっかり暑くなった俺たちはベランダに出て飲みなおしていた。
左隣を見ると、まだ半壊したままの自分の家が見える。
「ほら、ここからだと公園の桜が見えるんですよ」
「本当だ!ベランダから夜桜、いいですねえ」
「また一つ、やりたいことリストが叶いました」
「花見も入ってました?」
聞き返すと、皐月さんは微笑みながら頷いた。
夜風が心地よくて瞼を閉じた瞬間、記憶が花びらのようにひらひらと降ってきた。
春の宵、雪厳の滝で、俺たちは月見をしていた。
少年と青年の、ちょうど間くらいの時代。
『二ツ山向こうに、桜が綺麗な場所があるらしいぞ』
『桜か。梅の花ならどちらの縄張りにも咲いているが』
『いつか鬼の一族と妖狐の一族が和解したら、そこで花見の宴を開こうぜ。みんなで桜の下で酒を飲むんだ。楽しそうだろ?』
『そうだなあ、それはさぞ楽しいだろうな』
今は遠い、友の記憶。
目を開けると眼下の夜桜は街灯に照らされ、雲のように白く浮かび上がっていた。
(紫水。遠回りしたけど、お前の願いも叶ったよ)
こうして今、何百年という時を超えて、生まれ変わった俺たちは一緒に桜を見ている。
ほろ酔いの頭で、俺は「よかったな」と小さく零した。
「今、何か言いましたか?」
「ん?へへ、なんでもないですよぉ」
へらっと笑うと、彼の指が俺の耳元にすっ、と伸びた。
「へっ」
「動かないで」
硬直していると、皐月さんは何度か耳元の髪の毛を指先で挟み込み、滑るように撫で上げた。
「さ、皐月さん、なに」
「髪の毛に米粒が」
「え」
彼が指先をこちらに向ければ、米粒がいくつかついていた。
「あ、今日給食ひっくり返した手で髪の毛引っ張られたからきっとその時に……」
(いや、俺、今変な気持ちになっちゃったぞ!?)
夜風を浴びて涼しくなったはずなのに、またじわりと体が熱を持って汗が噴き出す。
よからぬ想像をした自分を棚に上げ、俺は責めるように口を尖らせた。
「さ、最初に言ってくださいよ!もー、急に触られたらびっくりするじゃないですか」
「……嫌、ではなかったんだ」
「——はい!?皐月さん酔ってます!?」
「あはは、冗談ですよ」
その笑い方がいやに艶めいていて、この胸の高鳴りがアルコールのせいなのか、他に違う感情があったのか、それすらも曖昧に混ざり合ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます