『SIDE B:カツ丼屋のすれ違い』

対バン事件の翌日。

ステージの空気はまだ少しだけ重かった。


でもあの夜、焼き鳥屋での倉橋の過去話で救われたことは、全員が知っている。


でも、涼歌はうまく「ありがとう」が言えない。


言葉にする前に、温度が逃げる。


⸻


だからせめて、直接伝えようと思った。


少し早めにスタジオへ向かう途中。


⸻


…見つけた。


倉橋さん(プロデューサー)…


⸻


(…今ならいける)


そう思った瞬間、足が勝手に動いた。


気づいたら、後ろを歩いていた。


⸻


(…いや、なんか尾行みたい)


(でも違う。尾行じゃないもん)


(たまたま同じ方向…)


⸻


心の中で必死に訂正する。


距離はしっかり一定に保つ。


⸻


倉橋は気づいていない。


いつも通り歩いている。


その背中を見ていると、不思議と呼吸が落ち着く。


⸻


(サスペンスドラマみたい…)


⸻


そんなことを考えているうちに、到着した。


⸻


『カツ丼 おさむ亭』


⸻


(……カツ丼屋?)


⸻


一瞬止まる。


⸻


(焼き鳥屋の次は、カツ丼で支えてる系の名店?)


⸻


倉橋は普通に入る。


涼歌も入る。


⸻


「いらっしゃーい」


⸻


店内。


⸻


倉橋しかいない。


⸻


(え)


⸻


お昼時なのに…


人気店じゃないの…?


⸻


倉橋は普通に座る。


普通にメニューを見る。


⸻


涼歌は一瞬だけ迷う。


(ここで帰るのは違う)


(お礼を言うタイミングがまだ)


⸻


でももう一つ問題がある。


⸻


涼歌は家で"冷やしラーメン"を食べてきている。

それも結構な量を。


そして今、カツ丼は重い。


⸻


(…食べられない)


(…でも残すのは違う)


(…でも入らない)


⸻


そのとき、頭の中で別の結論が出る。


⸻


(そうだ)


(倉橋さんに食べてもらえばいい)


⸻


完璧な解決策だった。


⸻


気づいたら、隣に座っていた。


⸻


倉橋が横を見る。


「……涼歌さん?」


「はい」


⸻


間。


⸻


「ここ、よく来るんですか?」


⸻


倉橋は少し考えてから言う。


「初めてだよ」


⸻


(は、初めてなんだ)

(…絶対常連さんみたく入ったのに)


⸻


少し安心する。


⸻


カツ丼が来る。


湯気。


音。


⸻


倉橋が一口食べる。


⸻


「涼歌さん、カツ丼好きなの?」


⸻


その言葉は、軽い確認だった。


⸻


(違います)


と言いたい。


でも言葉が追いつかない。


⸻


「……昨日は」


⸻


言いかけた瞬間。


⸻


「昨日助かったよ」


倉橋が先に言う。


⸻


一瞬止まる。


⸻


(それ、こっちのセリフ)


⸻


でも言えない。


⸻


代わりに出た言葉は、また少しずれていた。


⸻


「……カツ丼、すごいですね」


⸻


倉橋は普通にうなずく。


「うん、美味いね」


⸻


沈黙。


⸻


一方で、倉橋の頭の中では、別の物語が進んでいた。


⸻


(涼歌さん、わざわざ尾行してきてお礼か)


(しかもカツ丼好きなのか)


(今度いい店連れていくか)


⸻


完全に“好感度イベント”として処理されている。


⸻


一方の涼歌。


⸻


(…はあ、お礼、言えてない)


(でも隣にはいる)


(でも…これでいいのか分からない)


⸻


でも、不思議と焦りはない。


⸻


倉橋は普通に食べている。


涼歌は普通にそこにいる。


⸻


ただそれだけの時間が流れる。


⸻


会話は成立していないけど、なんだか関係だけ成立している、そんなひと時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る