『SIDE A:第一章』#10 "誤算"
店の空気は、まだ温かかった。
焼き鳥の香りが少しだけ残り、グラスの氷が小さく鳴る。
さっきまで鳴っていた笑い声の余韻が、まだテーブルの上に漂っている。
(……こういう瞬間があるからな)
(やっててよかったって思うんだよ)
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店の外はもう暗いはずなのに、店内だけが少し時間の流れを忘れていた。
誰も急がない。
誰も次の話題へ無理に進もうとしない。
ただ、そのままの空気で時間が少しだけ延びている。
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グラスが空になっていく。
串が減っていく。
会話の密度も、ゆっくりとほどけていく。
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そして、ふと。
誰かが小さく笑った。
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美咲
「なんか……今日すごくいい日だったね」
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その一言で、空気がふわりとまとまる。
言葉にしなくても、同じ感覚がそこにあった。
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倉橋(プロデューサー)は小さく頷く。
「うん、いい日だった」
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(……そろそろ締めるか)
(このまま終わってもいいけどな)
(いや、ちゃんと出るか)
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そう思った、そのとき。
少しだけ、現実の音が戻ってくる。
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店員の声が、静かに差し込まれた。
「お会計、ご一緒でよろしいですか?」
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空気が、ほんのわずかに動く。
時間が前へ押し戻されるような感覚。
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(あぁ、来たな)
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倉橋はゆっくりと視線を上げる。
まだこの余韻の層を壊したくはない。
だが、時間だけは確実に進んでいく。
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そして、ここから静かに現実へと接続されていく。
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店の中ではまだ野球中継が流れている。
しかし、誰も画面を見ていない。
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店員の声がもう一度重なる。
「お会計、ご一緒でよろしいですか?」
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その一言で、ほんの少しだけ世界が現実側へ傾く。
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倉橋は一度、ゆっくり息を吐いた。
(よし、ここだな)
(給料前だしな、まとめて割り勘でいこう)
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「じゃあ今日は――」
言葉を整えて、ようやく切り出そうとした瞬間。
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美咲
「ねえ真琴さん(倉橋)、さっきのイントロなんだけどさ」
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(えっ…今じゃない)
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「あとね、あの構成の入り方って」
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(いや、ほんと今じゃない)
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言葉が、きれいに“会計”のタイミングだけを避けて流れていく。
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その間に。
蒼唯が、
「ちょっとトイレ行ってきまーす♪」
まりみが、
「私もー」
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(ちょ…今その別れ方するのか)
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涼歌は一瞬だけ美咲を見て、小さく笑う。
「……じゃあ、私も」
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(いや、あなたも?)
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気づけば、テーブルには美咲とプロデューサーだけが残っていた。
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美咲はまだ話している。
イントロの話。
音の隙間の話。
ライブの空気の話。
さっきの“いい時間”からそのまま続いているような言葉。
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倉橋は苦笑する。
(悪くないんだけどな……)
(今じゃないんだよな……)
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ようやく一息ついたところで、切り出す。
「じゃあ、そろそろ会計――」
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その瞬間。
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美咲が立ち上がった。
「ちょっとみんなの様子見てくるね!」
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(あぁっ!逃げたぁ)
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倉橋が立ち上がろうとした、その刹那。
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「お会計お願いしまーす」
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(……あ)
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一瞬、完全にタイミングが消える。
そして静かに、現実のレールが切り替わった。
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倉橋はレジへ向かいながら、小さく笑う。
(誤算、か)
(まぁ、こういうのも現場だよな)
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外に出ると、夜の空気は少しだけ冷たい。
しかし、それは嫌な冷たさではなかった。
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店の前では、すでに4人がいた。
腕を伸ばしているまりみ。
写真を撮っている蒼唯。
夜空を見上げている涼歌。
そして何か話している美咲。
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誰もお金の話はしていない。
誰も会計の結果を気にしていない。
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倉橋は少しだけ足を止める。
(まぁ、いいか)
(今日はこういう流れだったんだろう)
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そして静かに歩き出す。
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前を行く4人は、まだ笑っている。
まだ余韻の中にいる。
まださっきの音の続きを持っている。
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倉橋は小さくつぶやいた。
「……またいい曲になるな、これは」
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夜はまだ終わらない。
しかし、ひとつの区切りだけが静かにそこへ置かれていた。
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