第11話 風が教えてくれること

旅に出てから、六年。


彼は二十二歳になっていた。


季節は何度も巡り、歩いた距離は自分でも数え切れなくなっていた。


それでも毎朝、彼が最初にすることは変わらない。


空を見上げることだった。


雲はどちらへ流れているか。


風は昨日と同じ方向から吹いているか。


鳥たちはどこへ飛んでいくのか。


そんな小さな変化を眺めてから、一日が始まる。


「今日は北から風が吹いている。」


そうつぶやき、荷物を背負う。


歩き始めると、木々の葉が風に揺れ、草原が波のようにうねる。


その景色を見るたび、彼は思う。


「風にも道があるんだ。」


目には見えない。


けれど、確かにそこを流れている。


それは川とよく似ていた。


ある日の昼下がり。


彼は一本の川にたどり着いた。


流れは穏やかで、水は驚くほど透き通っている。


彼は靴を脱ぎ、川へ足を浸した。


ひんやりとした水が、歩き続けた足を優しく包み込む。


「気持ちいい……。」


思わず笑みがこぼれた。


その日は地図を描くことを少しだけ休み、川のそばでのんびり過ごした。


木陰で風を感じ、鳥の声を聞く。


そんな時間も、彼にとっては旅の一部だった。


夕方になると、彼は紙を広げる。


川の流れを書き込みながら、ふと手が止まった。


「この川も、海へ向かっている。」


今まで歩いてきた川は、どれも最後には海へたどり着いていた。


途中で曲がり、枝分かれし、ときには滝になりながらも、その行き先は変わらない。


「世界って、不思議だ。」


一つひとつは違う景色なのに、どこかでつながっている。


山も。


川も。


風も。


そして、自分の歩く道も。


その夜、焚き火の前で彼は日記を開いた。


『今日は一日、風を見ていた。


風は見えないけれど、木や草が教えてくれる。


世界には、見えない道がたくさんある。』


書き終えたあと、彼は空を見上げた。


満天の星が広がっている。


旅に出てから何度も見てきた星空。


けれど、見る場所が変わるたびに、星の並びも少しずつ違って見える。


「あれ……?」


彼は静かに立ち上がる。


故郷で見えていた星が、少し低い。


逆に、見たことのなかった星が、空の高いところで輝いている。


気のせいではない。


歩くたびに、空まで少しずつ変わっている。


彼はしばらく星空を見つめた。


「空も、世界なんだ。」


その一言だけを残し、再び座り込む。


世界は大地だけではない。


見上げれば、そこにも知らない景色が広がっている。


そう思うと、胸が高鳴った。


翌朝。


朝露に濡れた草原を歩きながら、彼は笑う。


「今日も、知らないことが見つかる。」


その言葉とともに、また一歩。


ゆっくりと北へ向かって歩き始めた。


旅はまだ終わらない。


いや――。


世界は、歩くほどに広がっていくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る