第10話 北へ、ただ北へ

二十一歳。


旅に出て五年が過ぎた。


彼は、なおも北へ歩き続けていた。


森は少しずつ姿を変え、見たことのない木々が増えていく。


空気も変わった。


朝の冷たさが、少しずつ肌に残るようになってきた。


「少し寒くなってきたな。」


そうつぶやきながら、肩にかけた荷物を持ち直す。


旅を始めた頃の荷物とは、もう別物だった。


紙は何倍にも増えた。


自分で作った筆も増えた。


植物を乾燥させて作った保存袋。


旅の途中で削り出した道具。


歩くたびに必要なものを考え、工夫し、少しずつ増えていった。


その一つひとつに思い出がある。


彼にとって荷物は重荷ではなく、旅の記録そのものだった。


その日も、海岸線を確かめながら歩く。


波が岩へ当たり、白いしぶきを上げる。


彼は立ち止まり、その形をしばらく眺めていた。


同じ波は一つとしてない。


それなのに、海岸だけは何年経っても変わらずそこにある。


「不思議だな。」


思わず笑みがこぼれる。


旅をしていると、こんなことばかり考えるようになった。


世界は広い。


だからこそ、見れば見るほど面白い。


歩けば歩くほど、知らないことが増えていく。


ある日、彼は海辺に流れ着いた一本の木を見つけた。


乾いてはいるが、まだしっかりしている。


「ずいぶん遠くから来たんだろうね。」


木へ話しかけながら、その年輪を指でなぞる。


世界には、自分が歩いてきた土地とは違う場所がある。


この木も、どこか遠くから旅をしてきたのかもしれない。


そんなことを考えるだけで楽しかった。


その夜。


焚き火の火を見つめながら、彼は日記を開いた。


『今日は、流れてきた木と出会った。


私だけではない。


木も、鳥も、水も、旅をしている。』


書き終えると、静かに笑う。


「世界中、みんな旅をしているんだな。」


風が吹く。


焚き火の火が揺れる。


その炎を見つめながら、彼は思った。


もし、自分がこの旅を終えたら。


その時は、一枚の大きな地図を広げよう。


歩いた道を一本ずつ指でなぞりながら、


「ここは暑かった。」


「ここは寒かった。」


「ここは景色がきれいだった。」


そんなふうに思い返せたら、それだけで幸せだ。


誰かに見せるためではない。


自分が歩いた証として。


それだけで十分だった。


翌朝。


彼は海岸線を回り込んだ先で、大きく開けた景色に足を止めた。


目の前には、どこまでも続く大地。


そして、その先には、まだ終わりの見えない北の世界。


彼は深く息を吸い込み、笑顔でつぶやいた。


「まだ、終わらない。」


その言葉に、不満はなかった。


むしろ、嬉しかった。


世界は、自分が思っていたよりも、ずっと広い。


だから今日も歩く。


北へ。


ただ北へ。


一歩ずつ。


その足跡が、いつの日か世界地図になることを信じて。

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