第1話 世界を一枚の紙に描いた男
「世界を、一枚の紙に描きたい。」
その夢を聞いた人は、きっと笑うだろう。
世界の広さすら知らない時代に、一人の少年がそんなことを言ったのだから。
だが、その夢は、やがて約二千年後の世界を驚かせることになる。
――紀元前23年。
現在のアルゼンチン・ブエノスアイレス周辺。
大きな川と豊かな草原に囲まれた小さな村で、一人の男の子が生まれた。
彼は、どこにでもいる子どもではなかった。
肌は夜のように黒く、幼い頃から驚くほど丈夫だった。
村の子どもたちが一日中走り回って疲れ果てても、彼だけは平然としている。
山へ狩りに出れば道を一度見ただけで覚え、翌日には迷うことなく同じ場所へたどり着く。
大人たちは口をそろえて言った。
「この子は、森そのものに愛されている。」
少年は狩りへ行くことが好きだった。
獲物を追うことよりも、高い丘へ登り、見たことのない景色を眺めることが好きだった。
ある日、丘の上から地平線を見つめながら、彼は父に尋ねた。
「この向こうには何があるの?」
父は少し笑いながら答えた。
「誰にも分からない。」
その一言が、少年の心に残った。
誰にも分からないなら、自分で見に行けばいい。
その日から彼は、木の皮や平らな石に、見た景色を描くようになる。
川の流れ。
森の形。
歩いた道。
大人から見れば子どもの落書きだった。
しかし、彼にとっては違った。
「ここを歩けば、この川へ着く。」
「この木を曲がれば、あの丘が見える。」
景色を描くたび、迷うことがなくなっていく。
それが嬉しかった。
やがて少年は、村の周りだけでは満足できなくなる。
もっと遠くへ。
もっと知らない景色を。
もっと広い世界を。
そして、ある日。
彼は何気なく一枚の紙を眺めながら、小さくつぶやいた。
「世界って、一枚に描けるのかな。」
それが、誰にも理解されない夢の始まりだった。
しかし、その夢を語る前に、彼の人生は大きく変わる出来事を迎える。
十五歳。
狩りの最中の大事故。
流れた血。
そして、その血に触れた人々に起きた、誰にも説明できない異変。
村人たちは恐れた。
「あの子は厄災だ。」
その言葉は、少年から故郷を奪うことになる。
十六歳。
彼は紙と筆、そして少しの荷物だけを背負い、村をあとにした。
振り返ることはなかった。
世界を、一枚の紙に描くために。
彼はまだ知らない。
この一歩が、五十五年に及ぶ世界最大の旅の始まりになることを。
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