五の七

 初めて見る光景だった。わたしはずっと、父さんが喫煙者だとは知らなかった。


 無性に興味をひかれて、気づけば助手席のドアを開けていた。


「子どもは健康に悪いぞ」


 わたしが近づいていくと、父さんは手の位置を高く上げて、副流煙が届かないようにした。


「大人だって悪いでしょ」


「それはそう」


 父さんは吸って、肺に溜めて、ゆっくり吐き出した。


「吸うんだ?」


「母さんが嫌がるからな。たまに、こっそりと」


 その煙はバニラのような甘い香りがした。あまり不快なかんじはしない。


 わたしは父さんの横に立って、その場でしゃがんだ。正面から向き合うのは気まずかったから。


「思い出したよ」父さんはいった。「おれも親のことなんか好きじゃないんだった」


「へえ、そう」


「ああそうだ。おれが仕事辞めて家庭に入るっていったら猛反対されたしな。縁切ってやるって思ったよ。ひとの人生に口出しすんなって」


 蛾が飛んで、店のガラスに張りついた。


 父さんは灰皿の上でタバコを叩いて、「悪かった」といった。


「自分は親のことが好きじゃないのに、自分の子どもだけは特別だと思うなんて虫がよすぎるよな。玲愛は玲愛だし、俺でも母さんでもない」


 あたりまえのことだった。わたしはほかの誰でもなくて、ただわたしである。それだけのことなのに、他者の口から語られ、認めてもらえることが、わたしを安心させた。


「その上で訊くんだけど、おれはどうしたらよかったと思う?」


「どうって?」


「おれは玲愛じゃないし、女の子の気持ちなんてわからん。だから慎重に接してきたつもりだったけど、その結果が気持ちの悪いオヤジだろ?」


「うん」


「かといって、おれが女の子のことをなにもかも理解して、手取り足取り世話を焼いてやったら、それはそれで気持ち悪いっていうんだろ?」


「うん、キモいね」


 父さんはため息をついて前髪をかきあげた。「ワガママだな」というので、わたしは「ワガママだね」と応えた。


 わたしがほかの誰でもないということは、ほかの誰もわたしでないということだった。そういう意味では、安心すると同時に——矛盾しているかもしれないけど——不安にもなった。


「もっと、こうやって話せばよかったのかな」


「そうだな。親子っていっても所詮は人と人だからな、話さなきゃなにも伝わらないってことなんだろう」


 白い煙が暗い空に溶け込んでいった。虫の羽音と、ときおり通り過ぎる車を除けば、音のない静かな夜だった。


「今度は母さんも入れて話そうな」


「向こうにその気があるなら」


「あるさ、あの人はあの人なりに玲愛のことを愛してるつもりなんだから」


「そうなのかな」


 仮にそうなのだとしても、わたしには伝わっていない。伝わったとして、わたしはこれまでの母さんの、親としての責任を放棄したような振る舞いを許してやろうとは思わない。


 父さんのことも、べつに好きになったわけじゃない。ただ、ほんの少し、父さんのことを理解できたというだけだった。


 それでも、これまでよりは家族としてうまくやっていけそうな気がしていた。これは親子の問題というより、人と人との関わりかたの問題なのだと気づくことができたから。


「さあ」父さんはタバコの火をもみ消した。「友だちを探しに行かないとな」


 二人で車に戻った。カーステレオはいまだに聞きなれない洋楽を吐き出し続けていた。


「これ、なんの曲?」


「ザ・ゲット・アップ・キッズっていうバンド」


 疾走感のあるリズム。古くさい音作りで掻き鳴らされるギター。声の細い男が高音を絞りだして、なにかを感情的に訴えているようだった。そのどことなく情けない感じが、父さんにはよく似合っていると思った。


 英語はほとんど聞き取れないけど、休日にきみと会って話せたらラッキーだ、というようなことをいっているらしいのは理解できた。そんなどうしようもないことを、このボーカルは必死になって歌っているのだった。


「悪くないじゃん」


 わたしが七波と会うためには、解かなければならない問題がある。


 車はいつでも走り出せるようにアイドリングしている。図書館に向かっても意味がないということは、父さんも承知しているようだった。


「さっきのは撤回する。きっと、おれにも母さんにも答えはわからない。けど、玲愛ならできる。その友だちは、玲愛にしか解けないように暗号を考えたんだろうから」


 わたしにしか解けないように。


 荻のおばあちゃんも同じことをいっていた。七波はわたしにしかわからないようにヒントを出しているはずだった。


 ポケットにはスマホが二台入っている。そのうち画面の割れたほうを取り出した。画面に表示されるブルータス像は、間違いなくわたしに宛てたヒントだった。


 以前に七波がいっていたことを思い出した。どこにいてもつながっているみたいで、いやな機械だと。そのつながりとは、親とのつながりだった。だから七波は、親とのつながりを断ち切るように、スマホを地面に叩きつけていったのだ。


 ——ん? 親とのつながりを断ち切る?


 わたしはノートの、暗号の解読を試みたメモのページを開いた。そこにはアンダーラインを引かれてこう書かれている。


〈とびおやじんじも〉


 シーザー暗号として復号した、わたしがもっとも正解に近いと考えた一行だった。そこにはしっかりと〈おや〉が含まれている。


 七波は〈おや〉のつながりを断ち切るのだと、はっきりと行動で示した。だから、暗号も同じくしなければならない。


〈とびお〉〈やじんじも〉


 間違いない、これは七波が意図した操作だった。そして、つながりを絶ってふたつに分解したなら、次はもう一度ひとつに戻す操作が必要になる。問題は、どうつなぎなおすかだけど——。


「ああ、そういうことか」


 わたしは文字を並べかえた。操作が誤っていないことを再確認し、できあがったひらがなの列を読んでから、大きく漢字で書き直した。両手でノートを持って、開いたページを運転席に向ける。


「ここに向かってほしいんだけど」


 父さんは顔を近づけて目をこらし、「あそこか」といった。


「わかった。シートベルトはしたな? 飛ばすからつかまってろよ」


 芝居がかっていう父さんに、「制限速度は守ってよ」とわたしは返した。案外おもしろい人だな、と思った。もしかしたら七波も、こんなふうに親と話せたら、なにかが変わるのかもしれない。


 ——七波、遅くなってごめん。けど、いま向かってるよ。だから、もう少しだけ、そこにいてわたしを待っててくれないかな。

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