五の六
荻のおばあちゃんの家の前の道を歩き、そのさきの交差点で莉帆と別れた。ひとりになってみると、わたしなら暗号を解読できるという自信はしぼみ、やがて消失した。むしろなぜ、わたしにそんなことができると思い込んでいたんだろう?
「おかえり、遅かったね」
家に帰れば、父さんがわざわざ玄関まで出迎えにきた。わたしは後半を聞かなかったことにして「ただいま」とだけいった。
父さんはなにかいいたげな顔をして、逡巡して、やめた。通り過ぎるわたしの背後から、夕食は十五分後になるとだけいった。
自室の床に鞄を放り出して、わたしはベッドに仰向けになった。充電器に挿さっていたスマホを抜いた。莉帆からはまだ連絡がない。
体を起こして、鞄からノートを抜き出した。暗号の紙は莉帆が持っているけど、内容はこちらに書き写してある。デスクに置いて、シャーペンの芯を三回押し出す。
なにもわからなかった。
わたしが暗号を解かなきゃいけないのに、わたしにはその能力がない。
七波はわたしに期待してくれている。けど、わたしが七波の期待に応えられたためしがあっただろうか。いつも推理をするのは七波で、わたしはそのそばに付きまとっていただけだった。
ダメだ。そんなこと考えてもしょうがない。とにかく一刻も早く七波を見つけなきゃいけないんだから、なんでもいいから手を動かさないと。
シーザー暗号、というのはやっぱり間違っていない気がする。きっとやり方が間違っているだけ。五十音順でないなら、アルファベット順でズラすのはどうか。
ローマ字でアルファベットに直すと〈TEBAUMEGOWAZUYA〉で、これを変換すると——。
〈UFCBWOGIQYCYTXZ〉
なんの意味もなさない。なら、これも逆向きにズラすのは——。
違う。直感が告げている、そんなことはするだけ無駄だと。なにかが根本的に間違っている。
もう一度スマホを見た。莉帆からラインがきていた。家に着いた、暗号が解ければどこでも探しに行ける、と。わたしはスタンプだけを返した。
意味もなくわたしは手を動かし続けた。できないとわかっていてもやるしかなかった。わたしのためではない、七波のためだから。
「玲愛ー、ご飯にするよー」
手に力がこもって、シャー芯が弾けた。
食卓の四人がけのテーブルには、酢豚と中華スープと白米が並べられていた。パイナップル入りの酢豚は大皿に盛られ、取り皿が用意されている。
なぜ始めから取り分けておかないのか。なぜ一つの皿をふたりの箸でつつかなければならないのか。そして、なぜ酢豚にパイナップルを入れるのか。
「いただきます」
父さんがいうのに合わせて手を合わせ、箸を取る。
七波はきっとおなかをすかせている。ひとりで孤独に、わたしが来るのを待っている。こんなことをしている時間はない。なのにもう、わたしには暗号を解読するためにできることがなかった。
どこに隠れているというんだろう。わたしたちと縁もゆかりもない場所ではないはずだった。それなら、心当たりのある場所をしらみつぶしにしていけば、七波は見つけられるはずだった。七波の期待には応えられなくなってしまうけど。
視線を上げて、向かい合う人を見た。
いまから今日中にそれを実現するためには、わたしだけでは無理だった。どうしたって、車と運転する大人が必要になる。
父さんは見られているのに気づいて、半端にはにかむような顔をして、それから目をそらした。挙動不審に、テーブルの上で箸を泳がせる。
——無茶なことするまえに、これからは頼れる大人に相談すること。
ヨッシーがいっていた。
この人が頼れる大人? 男とは思えないほど気弱で、そのくせ女の気持ちなんてひとつも理解しないこの父親が?
「食欲ないの? それとも、酢豚が口に合わなかったかな」
軟弱な声、慎重な態度、冴えない髪型、気づかわしげな表情。そのすべてに、イライラする。
けど、ほかに有効な手段はない。わたしはわたしにとって、本当に大切なものを優先したい。だから——。
「父さん」わたしは箸を置いた。「お願いがあるんだけど」
家を出たとき、日が沈んだばかりの西の空は、まだほんのり明るかった。わたしはスマホとノートだけを持って助手席に座った。
心当たりがあるのは、駅前から水族館までだった。場所だけ伝えて、わたしは窓の外の見慣れない町を眺めていた。
駅の近くで車を停めてもらい、わたしはひとりで降りて周囲を探した。待ち合わせをしたベンチ、ハンディファンを見つけた植え込み、それを届けた交番。そのあと歩いていった方向まで見渡しても、七波はいなかった。
車に戻って、大ざっぱな道筋を伝えて、水族館に向かってもらった。道中も探していたけど、見落としていなければ、七波はいなかった。
水族館に着くころには、空がすっかり暗くなっていた。閉館は十八時。閉ざされた門の前まで行って、七波がいないことを確認して引き返すことしかできなかった。
「次はどこに行けばいいかな」
父さんはカーステレオの音量を調節していた。騒々しい洋ロックだった。
「わからない。本の好きな七波だから、図書館、とか」
シートベルトを締めながら答えた。七波が図書館にいるなんて思っていない。けど、もう心当たりがないし、それでもなにもしないわけにはいかなかった。
「わかった、向かってみよう」
車は反転して、ヘッドライトに照らされた道を、ただ走った。街灯、信号、星明かり。網膜を焼いて、頭のなかが白くなる。わたしはそこに、意味もなく存在していた。
もう、できることはやった。無能なわたしにできる、これが精一杯だった。
「いいにくいんだけど」前を向いて運転したまま、父さんはいった。「その七波、って子、大丈夫なの?」
「どういう意味?」
赤信号で車が止まる。父さんはハンドルから手を離して、髭の生えかけたあごを触った。
「空き巣のときに一緒にいたのもその子だよね。水族館で溺れかけたときも」
「……だから?」
信号が青になって、父さんはこちらを一瞥してから、車を発進させた。
「いや、いいんだ。玲愛が選んだ友だちだからね。父さんは玲愛を信じるよ」
不愉快だった。どうして、いいたいことをはっきりいわないのか。いってくれたほうが、まだしも気持ちが楽なのに。
だいたい、わたしは友だちを選んでなどいない。誰かさんの都合で引越したせいで学校に馴染めなくて、それを気にしないでくれた数少ない同級生ふたりと友だちでいるだけなんだから。
ノートを開いた。意味不明な文字列ばかりで、乱雑にページが埋め尽くされている。そこから読みとれる情報はひとつもない。七波の居場所につながるとはとうてい思えない。
「暗号を解けば居場所がわかるんだっけ」
黙っていればいいのに、父さんは話しかけてきた。わたしは「そう」と返した。
「大丈夫、よく考えてみて」
やめて、もう話しかけないで。
「玲愛ならきっと解けるよ」
それ以上、聞きたくない。
「玲愛は賢いんだから」
やめてよ。
「母さんに似てね」
——プツッ。
「わたしは母さんじゃないっ!」
自分の声とは思えなかった。同時にダッシュボードを拳で殴りつけていた。痛みは感じない。
「わたしはあの人が嫌いなの! 自分のことしか考えてないあの人が!」
「玲愛……」
「あの人は必要なときにいつもいない。わたしはもうただの子どもじゃない。わたしが変わっていくあいだも、あの人はずっといなかった。必要、だったのに……」
ノートに涙が落ちた。こんなことはいいたくない。なのに——。
「父さんも嫌い。わたしのことなんて、なんもわかってない。腫れものに触るようにしないでよ、気持ち悪い」
それからは、ひたすら嗚咽した。もうぐちゃぐちゃだった。これは父さんにぶつけるべきものじゃなかった。わたしはただ、なにもかも思うようにいかないのを人のせいにしているだけだった。
父さんはそのあいだ口を聞かなかった。どんな顔をしていたのかはわからない。わたしはずっと、伏してうずくまっていたから。
「……ごめん」
どれだけの時間が経ったのだろう。車はまだ知らない道を走っていた。
父さんはウィンカーを出して、車をコンビニの駐車場に入れた。
「少し休憩していいかな」
「どうぞ」
わたしは車に残って待った。エンジンとエアコンとカーステレオはつけっぱなしだった。
最低な気分だった。自分に対して嫌悪を向けていた。わたしはなんの役にも立たないどころか、人を傷つけてしまう。
コンビニの明かりに夏の虫が集まっている。ほかの客はひとりもいない。
父さんはすぐに店から出てきた。白っぽい小さな箱を持っている。封を切り、なかに入っていた棒状のものを一本出して口に咥えた。その先端を左手で覆い、右の手に持ったライターで、火をつけた。
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