五の八
ザクザクと、砂利の上を歩く音だけが聞こえる。あらゆるいきものが寝静まる夜だった。
わたしの前にはうっそうと樹木が生い茂り、そのまんなかだけがぽっかりと口を開けていた。どこまで続いているかしれない階段が、山の奥へ、闇のなかへと飲み込まれていくようだった。
「玲愛、気をつけるんだぞ」
道端に停めた車の窓を開けて、父さんは手を上げた。初めはついてこようとしたけど、わたしが断った。ここからさきは、わたしひとりで行かなきゃダメだ。
「ありがと、気をつけるね」
スマホを懐中電灯にして、一段目に足をかける。二段、三段と、数えながら上っていく。とくに意味はないけど、そうしていないと足が止まってしまいそうだった。
この上に七波がいる。けど、どんな顔をして会えばいいんだろう。どんな言葉をかけてあげればいいんだろう。わたしが行ったところで、なにが解決するというんだろう。
ジッ、という短い鳴き声とともにセミが飛び出してきた。とっさに身をかがめて避けたら、スマホをとり落としてしまった。ライトが下を向いて、なにも見えなくなった。いまが何段目なのかは、忘れてしまった。
スマホを拾って、わたしはまた上った。怖いけど、そうするしかなかった。ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。
いや、違う。わたしは仕方なくそうするんじゃない。そうしたいと思うからそうするんだ。七波と会いたいと思うから、七波と友だちでありたいと思うから階段を上るんだ。自分が選んだのでなければ意味がない。
急角度の坂を上るために、階段は右に左に曲がりくねっている。折り返して踊り場のようになったところで息をついた。入り口はとっくに見えない。終着点もまだ見えない。
冷たい汗をかいていた。不安でしょうがなかった。
本当に七波はいるのだろうか。もし暗号の解読が間違っているとしたら、もしわたしが来るのが遅すぎたとしたら、もし両親がさきに見つけてしまったとしたら、そのとき七波は——。
考えても詮ないことばかりが頭に浮かんでは消えていく。足もともしだいに見えなくなっていった。
上げた足が空を踏み抜いて転びそうになった。そこに段はなくて、道は平坦だった。少し行くと古びた鳥居が建てられていて、そこからさきは視界が開けていた。
星の明かりがうっすら照らして、スマホがなくても形がわかる。浮いたような屋根の手水舎、まっすぐな石畳の参道。両脇にある一対の石像は、狛犬かお狐さまか。
奥には本殿が構えていた。その手前の石段に、こぢんまりと人の影が座っていた。
もう迷わなかった。息を整えて、わたしは参道を進んだ。背筋を伸ばして、毅然として進んでいった。
はっきりと姿が見えるまで近づくと、色白の制服の少女は笑っていた。イタズラ好きの少年のように無邪気な笑顔で。まるでそういう妖怪かのようだった。
「もう、遅かったじゃん。あんまり待たせるから蚊に——」
「バカ!」
わたしは七波の頭をはたいた。わりと力を入れて思いっきり。軽快な打撃音が境内に響き渡った。
「いったあ!」
「わたしがどれだけ心配したと思って……」
急に全身が脱力して、立っているのも面倒になった。悩んでいたことの全てがバカらしく思えてきた。わたしは七波の右隣にどかっと腰を降ろして天を仰いだ。
「ありがとね、玲愛なら来てくれるってわかってたよ」
「はあ、そうですか」
星が綺麗だった。山の上から見る夜空は、街のよけいな光がなくて、底まで深く澄んでいた。
「いちおう、さ」七波は頭をさすりながらいう。「なんでここがわかったのか、訊いてもいい?」
「暗号を解いたから」
「それじゃ答えになってない」
あまりいいたくなかった。小説の探偵が推理ショーをやるみたいで、なんだか気恥ずかしかった。けど、七波は逃がしてくれそうにない。
「シーザー暗号、七波が前にいってたのを思い出した。この——」
画面が割れたほうのスマホを出してみせた。
「ブルータスを見たときに。だから暗号を符号の数だけ五十音順にズラした。そうすると〈とびおやじんじも〉になる。けど、ここからさきがわからなかった」
迷走して、水族館まで行ってしまったことを話した。父さんといろいろあったことも。
「またこのスマホを見てたら、これは〈つながり〉だっていってたのも思い出した。七波は親とのつながりを断とうとしたんだって気づいた。だから暗号も〈おや〉で切ってふたつに分けた。そうしたら、どこでつなぎ直すかだけど、これはすぐにわかった」
七波はなにを望んでいるのか、どうつながりたいのか。考えるまでもなく、答えはひとつだった。
「そんなの〈とも〉しかないじゃんって。だから、〈とびお〉と〈やじんじも〉を逆さにして、〈とも〉でつなぎ直すと、〈おびともじんじや〉。答えは〈帯友神社〉」
ブルータスが隠されたのがこの帯友神社だった。わたしたちと縁のある場所でありながら、完全に盲点にあった。暗号を解読できなければ、まさかここにいるとは思わなかっただろう。
「ふふん」七波は楽しげだった。「やっぱ玲愛は才能あると思ってたんだよね」
「探偵の助手として?」
「探偵の、だよ。自分で考えたり、疑問に思ったりする才能がある。なのに玲愛はいっつも『わたしなんか』って遠慮しちゃうんだから」
「う……」
口に出していった覚えはない。けど、思っていたのはたしかだった。
わたしに探偵の才能がある? そんなわけない、わたしは勉強もろくにできないんだから。優等生の七波さまのおたわむれである。
からかわれていると思うと、なんだかムカついてきた。
「この暗号、いつから用意してたの?」
反転攻勢に出る。
「え?」
「その場で考えたにしては出来すぎてるじゃんか。母親が来て玄関に行くまでと、テストを取りに戻ったときくらいしか時間がなかったはずなんだから。いつかこういうときのために、って前々から用意して温めてたんじゃないの?」
「それはまあ、そうなんだけど……。指摘されると、恥ずかしいっていうか」
七波は頬に手を当て、本当に恥ずかしがっているようだった。オリジナルの暗号を考えて、夜な夜ないつか使うときの妄想をして、ニヤニヤしていたんだろう。かわいいヤツめ。
「そうだ、もうひとつ訊きたかったことがある」
「なに?」
「水族館のとき、なんで機嫌が悪かったの?」
「そんなの——」
だいたいどういう答えが返ってくるかは想像がつく。だからこれも、七波に罰を与えるためのイジワルな質問だった。
「自分のせいだって思ったから」
「わたしが水に落ちたのが?」
「そう」
「ふーん、そりゃ『カンペキ』じゃないよねえ」
「ちょっと、からかってるでしょ」
七波は低いところから頬を膨らませて睨みつけてきた。そのままにらめっこのようにお互い見つめあって、どちらからともなく、笑ってしまった。
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