五の五
「怖いな、今日の赤沢は」
「いいから、早く暗号を解かないと」
和室の机に紙と自分のノートを置いて、すぐさま取り組んだ。しかし、手は止まったままだった。冷静に考えているはずなのに、これ以上なにをどうしていいのか見当もつかなかった。
七波の父親はすぐに帰ったようで、荻のおばあちゃんは若干の疲労を滲ませながら、机の向かいに腰を下ろした。
「なー、おばあちゃんもなんかアイデアないか?」
莉帆は容赦なく鞭を打った。暗号に気を取られて、機微を察することができなくなっている。——もとからそういう性格かもしれないけど。
「たぶんですけどね、わたしにはわからないんじゃないかと思いますよ。七波さんは、おふたりに解いてほしいんですから、きっとおふたりにしかわからないようにヒントを出しているんじゃないでしょうか」
「わたしたちにしか、わからない……」
ここにはヒントらしきものは残されていなかった。となると、考えられるのは過去の会話や出来事だ。今日までの四か月のどこかに、暗号を解くための手がかりがあることになる。
そのとき、わたしのふとももに小さな振動が走った。ポケットのなかに入れたままになっていた、七波のスマホだった。
「父親に渡さなかったのか?」
「あー、うん。渡し忘れてた。——いや、渡したくなかった、かな」
机の上に置くと、割れた画面にアプリの通知が表示されていた。通信キャリアからのお知らせのようだったけど、その内容はどうでもよかった。目を引いたのは、待ち受けに設定されていた写真だった。
「ブルータスの石膏像……」
学校をひとり歩きしていた、美術室のブルータスに間違いなかった。中畑先生が遺したという、あのブルータスだった。
「アレ、もう覚えたぞ」莉帆は渋い声を作っていう。「『ブルータス、おまえもか』だろ」
「へえ、それをいったのは?」
「……さあ?」
莉帆はけっして頭が悪いのではないのだけど、文系科目に対する興味が希薄だった。
「カエサルな。ヨッシーがいってたけど、シェイクスピアの戯曲だとシーザーで……」
ふいに脳裏に火花が散った。記憶の影が照らされて、過去の経験が鮮明になる。〈暗号〉と〈シーザー〉。この組み合わせを、わたしは知っていた。
「シーザー暗号……」
あれは『黄金虫』について話していたときだった。下校しながら、七波がいっていた。暗号の一種として、シーザー暗号というものがあるのだと。
荻のおばあちゃんは正しかった。七波はちゃんと、わたしにだけわかるように、ヒントをのこしていたのだ。
「シーザー暗号」莉帆は繰り返した。「それってたしか、アルファベット順に文字をズラすんだったか」
「よく知ってるじゃん」
「数学と暗号は関係が深いから、初歩だけかじったことがある」
なるほど。七波のことだからそれを見越して、ふたりのうちどちらが解いてもいいと考えたんだろう。わたしと莉帆はフェアに扱われているということだ。
「この暗号がシーザー暗号だとしたら、プラスとマイナスの数だけ、五十音順にズラせばいいってこと……?」
さっそく試してみることにした。都合のいいことに、わたしのノートにはすでに、ひらがなに直した暗号が書いてある。プラスの符号はひとつ次、マイナスの符号はひとつ前として、一文字ずつ丁寧に変換していく。
プラスがひとつの〈て〉は、ひとつ次にズラして〈と〉。同様に、〈ば〉は〈び〉に変換できる。プラスがふたつの〈う〉は〈お〉になって——。
でき上がった短い文字の羅列を、わたしは読み上げた。
「〈とびおやじんじも〉」
「……なんだそれ」
わたしが聞きたい。そんなはずないと思って何度も確認したけど、結果は間違いなく〈とびおやじんじも〉だった。
「ズラす方向が逆なんじゃないか? もとの文を符号の方向にズラしたものが暗号だと解釈するなら、復号するには逆方向にズラす必要があるだろ」
「ん、たしかに」
すぐに取りかかった。〈て〉はひとつ前にズラして〈つ〉。〈ば〉のひとつ前は……〈ど〉になるんだろうか?
そうして完成したのが、こうだった。
「〈つどあみぐれぜゆ〉」
莉帆は頭を抱えてしまった。わたしだってそうしたい。
どうしてだろう。シーザー暗号を閃いたときには、たしかに正しい方向へ進んでいる実感があったのに。ズラしかたが間違っているのか、そもそもシーザー暗号というのが見当違いなのか。
それからしばらく、なにも進展らしきものがなかった。しだいに口数が減り、暗号とにらめっこするだけになっていった。
「七時には帰らないと……」
申しわけなさそうに莉帆がいった。時計の長針は、九と十のあいだにある。
「でも、まだ諦めたわけじゃないぞ。ゼッタイ、今日のうちには解いてやる」
「うん、わかってる」
家に帰れば自分のスマホを使えるようになるから、莉帆との連携には支障ない。問題があるとすれば、本当に今日中に解けるのかということと、夜になってからわたしが家を出られるのかということだった。
いや、もうひとつあった。そんな遅い時間まで、七波をひとりにしておいていいのかということだ。
「おばあちゃん、これって警察に知らせたほうがいいのかな」
七波はきっとそれを望んでいないだろう。けど、本当に七波の身を案ずるなら、警察に探してもらうのが一番だった。稲取さんなら、わたしたちの訴えも真剣に取りあってくれるだろう。
「わたしもそう思ったのですが、七波さんのお父さんは警察に相談する気がないようでした。可能な限り、大ごとにはしたくないようで」
そうだった。あの父親はこの件を面倒ごととして捉えている。なるべく身内で、看板に傷をつけないように処理したいんだろう。
「行方不明の届け出は、他人が勝手にできるものではありませんから」
「そんな……」
警察が組織的に動くためには、その届け出が必要になるんだろう。稲取さんは協力してくれるかもしれないけど、それは個人としてだし、ひとりではほとんど助けにならない。
考えれば考えるほど不安になってきた。まだ十三歳の女の子が深夜にひとりで出歩くというのは、かなり危険な状態になるんじゃないだろうか。
もしひと気のない場所で熱中症になって倒れてしまったとしたら——。
もし暗がりで足を踏みはずして怪我をしてしまったとしたら——。
もし悪い大人に誘拐されてしまったとしたら——。
それは全部、わたしのせいだ。
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