五の二

 おばあちゃんの家の前だった。白い日傘の下に白いワンピース。無垢な少女のような格好のその人は、しかし年齢を隠せていなかった。厚すぎる化粧、白髪染めをしたような髪の色、露出した二の腕のたるみ。若く見積もっても四十は過ぎている。


 婦人は眉を吊り上げてつばを飛ばし、荻のおばあちゃんに詰め寄っていた。赤の他人がどうのとか、無責任にどうのこうのとか、断片的には聞き取れるものの、主張の全体像が掴めない。


「あの、どうかしました?」


 まだ幽体離脱したままだったわたしは、ふらふらと歩み寄って声をかけていた。正常な判断能力があれば、触らぬ神に祟りなしとわかっただろうに。


 ワンピースの女の人は口をつぐみ、わたしの顔と、それからおばあちゃんの反応を見た。得心したように頷いて、高圧的にいった。


「あなたがそうなのね」


 あごを突き出して見下していた。それは侮蔑のまなざしだった。


 わたしは反射的に睨み返していた。瞬時に血が沸騰していた。どうかしているのはわかっているけど、そこにいる人が敵に見えてしょうがなかった。いままで内に向けてきた感情が、突如として反転してしまったかのようだった。


「まったく品性のない」婦人は鼻で笑った。「それと、そこの小さいのもね」


 わたしのうしろにいる莉帆のことだった。


 許せない。わたしと、わたしの友だちをバカにしやがって、年増のくせに!


「ふざけんな、この——」


 そのとき莉帆が背後から捕まえなければ、わたしはなにをしていたかわからない。理性が暑さで溶けてしまったのだと、そうとでも言いわけしなければ、わたしはわたしを正当化できそうにない。


 婦人は軽蔑したように鼻を鳴らした。


「顔は覚えたから」


 コツコツとヒールの音を鳴らして歩き、路上に停めてあった車に乗り込んだ。白のレクサスは、滑らかに、しかし凄まじい加速で走り去ってしまった。


「なんなんだよ、あのバ……」


 口汚く罵りかけて、やめた。いまごろになって、ようやくわたしがわたしに一致しはじめた。かいた汗の気化熱で、頭のなかまで冷やされていくようだった。


「熱中症になってはいけませんから」荻のおばあちゃんはあくまで穏やかだった。「とりあえず上がってくださいな」


 玄関から入って靴を脱いだ。いつもの和室まで、みな無言だった。襖は開いたままで、なかには誰もいなかった。そこにいるはずの人物がいなかった。ただし、半端に中身の残ったグラスと食べかけのカステラ、そして放り出された通学鞄が痕跡となって、そこに彼女がいたことを示していた。


 荷物を置いて、座布団に膝をついてから、莉帆は重々しくいった。


「七波の母親だよ、アレ」


 信じがたいことだった。たしかに、外見上は共通点がないこともない。しかし、七波のように聡明な子があのような人間から産まれてくるとは思えなかった。


 いや、それが事実だとして、どうして荻のおばあちゃんに怒鳴り散らすような事態になったんだろう。困惑したまま、わたしは説明を待った。


「七波さんは、ここに来ていることを、親御さんに伝えていなかったみたいなんです」


 荻のおばあちゃんは、ゆっくりとことの顛末を話しはじめた。


 わたしの思っていたとおり、七波はさきにひとりで下校しておばあちゃんの家に行っていた。いつものように本を読み、お菓子を食べて、おばあちゃんと他愛もない雑談をしていた。


 事件が起きたのはいまから三十分ほど前、ちょうど莉帆が図書室に来たころのことだった。インターホンが鳴り、おばあちゃんが出てみると、あの人が日傘をさして立っていた。開口一番に七波を出せといわれたが、おばあちゃんは警戒して、相手の要求を突っぱねたのだそうだ。


「えっと、ちょっと待って」理解できなくて口を挟んだ。「七波はここのことを母親にいってなかったんですよね? なら、七波の居場所がわかるのはおかしいんじゃ……」


「これを使ったのだそうです」


 おばあちゃんが机の上に置いたのは、見覚えのあるスマホだった。画面がバキバキに割れているけど、それが七波のものなのはすぐにわかった。


「ジーピー……とか、おっしゃっていたようでしたが」


「GPSか」莉帆が嫌悪感を滲ませていった。「それでずっと位置情報を追跡してたんなら、かなり悪趣味だぞ」


 わたしもそう思う。自分の親に同じことをされたらと想像すると、ゾッとする。


「自分の子供のことを心配して、だそうです。空き巣の件があったから、いつでも連絡できるように持たせたものなのだとか」


 それを聞いて、ひとつ合点のいくことがあった。なぜスマホを持っているのに事件のときに使わなかったのかと疑問に思ったことがあったけど、どうやら因果が逆だったようだ。事件があったからスマホを持っているのであり、事件のときにスマホを持っていたはずはなかったのである。学校に持ち込むには特別な許可が必要になるけど、事情が事情だから、先生も首を横には振れなかっただろう。


「わたしには本当の親なのか判断できず困っていたのですが、声を聞きつけたのか、七波さんは自分から出てきました」


 対面するなり母親は、テストの結果はどうだったのかと訊いた。七波は無言で引き返し、答案を持って戻ってきた。母親はざっと目を通し、あろうことか七波に平手打ちをくらわせた。成績が落ちたのはこんなところで油を売っているからだと、七波とおばあちゃんの双方を非難した。ただ、荻のおばあちゃんがいうには、点数はどれも九十を下回らなかったそうである。


 七波は黙って叱責を受けていた。しかし、非難の矛先が〈ここに一緒に来ている友人〉に向かった瞬間、目の色が変わった。持っていたスマホをあらん限りの力で地面に叩きつけ、口にするのもはばかられるような悪態をついて、逃走した。


 母親はあとを追いかけようとしたが、すぐに見失い、行き場のなくなった怒りを荻のおばあちゃんにぶつけた。わたしたちが来るまでそうしていたのだから、よほど頭に血がのぼっていたんだろう。「赤の他人」や「無責任」などのわたしが聞き取れた言葉も、だいたいどういう意味だったのか、これで理解できた。わたしたちが初対面で嫌われた理由も。


「気が回らず、申しわけありません。おふたりも、ご両親に伝えていないのでしたら——」


「あたしはちゃんと許可もらってる」


 莉帆は即答した。理屈を重んじる莉帆は、自分にもそれを適用する。正しい手順を踏まなければ、通学路で寄り道をすることも許されないのだろう。


「わたしは——」


 伝えてあるわけない。父さんにいえば面倒なことになるのが目に見えているし、母さんとは話す機会がほとんどない。


「——問題ないと思う」


 可能なかぎり嘘にならない言い回しをした。問題ないというのは願望でしかないけど、少なくともわたしはそう思っている。


 おばあちゃんはもの問いたげな目でわたしを見ていたけど、やがて「信じましょう」といって立ち上がった。


「しばらくこちらにいらっしゃるでしょう? 七波さんが戻ってくるかもしれませんしね」


 台所に向かうんだろう。わたしたちのぶんのカステラもちゃんと用意してくれているのだ。


「戻ってくるよな。鞄、置いてってるし」


 珍しく気苦労して疲れたのか、莉帆は深いため息をついた。畳に手をついて正座を崩し、足を投げ出す。


 女子にあるまじきだらしない格好だな、と思って見ていると、座布団の下から白っぽいなにかがはみ出しているのに気づいた。


「ん、なんかある。紙、かな」


「紙? どこに?」


「ほらそこ。あー、いま足の下」


 莉帆が足をどけると、やはり紙の角がそこにあった。莉帆によって座布団の下から引っ張り出されたのは、破りとられたノートの一ページ。


「なんだコレ。あ、裏になんか書いてある」


 殴り書きしたのか筆跡が乱れているけど、文字としては十分に読める範囲だった。しかし、文としては意味がわからない。


「うーん、〈手ば埋め碁わ図や〉って書いてあるよな?」


「そうとしか読めないけど」


「七波が書いたってことか?」


 おばあちゃんがこんなイタズラをするはずはないから、そうなんだろう。けど、七波が無意味なことをするとも思えない。とするとこれは——。


「暗号、か」

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