五、つながりかた

五の一

「もうすぐ夏休みだね」


 朝なのに汗ばむほど暑い。気温が上がるのは、日に照らされた地面が熱を持ち、しだいに空気を温めるからであると、理科の教科書には書いてある。それが本当なら、朝の八時から暑くてしかたがないのは、はなはだおかしな話だった。


 思うに、夏休みとは責任逃れである。この酷暑のなかでは、通学するのも授業をするのも、熱中症などの健康被害を起こすリスクが高すぎる。だから学校はその責任を負わず、各家庭に押しつけているのだ。


「予定は決まってる?」


「あんまり。家族で、国内旅行が一回だけ」


 たぶん今年もあるんだろう。毎年いまごろの時期になると、母さんがこの話題を持ちだす。どこか行きたいところはないか、とわたしと父さんに訊き、母さんは希望通りの旅行プランを立てる。ビーチでも、避暑地でも、テーマパークでも、どこへでも連れていってくれる。


 無邪気にそれを楽しめたのは二年前までだった。わたしはもう気づいてしまった。これは、わたしのための行事などではないのだと。あの人が家族サービスをした気になるための、自己満足にひたるための茶番でしかないのだと。年にたった一回の旅行で、親としての責務を十分に果たせていると、あの人は本気で信じているらしかった。


「シイちゃんオハヨ」


 登校も七波と歩くようになった。莉帆もいたりいなかったりするけど、今日はいない。この時期に長時間の待ち合わせをするのは自殺行為だから、時間が合えば一緒に行くし、合わなければさきに行く。


「七波は?」


「わたしも似たようなものかなあ」


 どう似ているというのか、真意を掴みかねる。ほとんど予定が埋まっていないという点で似ているのか、それとも家族旅行があるという点で似ているのか。


 七波の家族、か。会ったこともないし、七波から聞かされたこともない。いまだにわたしは、七波のなにも知らないのかもしれない。


「夏休みなんか、なくてもいいのに」


 素直にそう思って口に出した。いつもどおりの通学路を歩いていられるのは、気分的に楽だった。日常に溶けこんでいれば、難しいことを考えなくてすむ。都合の悪いことには目をつむり、流れに身をまかせていれば生きていられる。


 けど、そうはいかない。夏休みは来る。なぜなら、学校は責任を負ってくれないからだ。


「そんなこといわないで、また遊びに行こ?」


 七波は屈託もなくいう。まるで、水族館に行ったのが愉快な思い出であったかのように。楽しくなかったとはいわないけど、少なくともわたしは、もういちど同じことを繰り返したいとは思わない。


 七波はどうなのか。あのときなにを考えたのか、なぜ完璧でなかったのか、訊いてみたくはあった。しかしわたしは臆病だった。いまの関係を崩す可能性があることには、手を出したくなかった。


「うん、そうだね」


 日常を歩く。それが許されているかぎり。




 空調の効いた図書室で本を読む。心なしか、いつもより生徒の数が多いようだった。みな考えることは同じだった。暑い放課後を、静かな涼しい場所で過ごしたいのだ。


 今日は期末テストの結果が明らかになる日だった。教科ごとに一喜一憂し、精神をすり減らした人間は安らぎを求めている。かくいうわたしも、喜よりも憂が上回った現実から逃避しようとしていた。


 ページをめくる。隣には図書委員長の先輩がいる。ほとんど会話はない。互いに自分の読書に集中していた。貸出や返却のときだけ顔を上げ、必要なら最低限のやりとりを交わす。


 入り口の戸が開いて、入ってきたのは莉帆だった。額にうっすら汗が浮いている。こちらに目配せをくれてから、中央の机に荷物を置いた。それだけで意味は伝わった。学級委員の仕事で学校に残っていた。ここであと少し時間を潰していくから一緒に帰ろう。と、そんなとこだろう。


 七波はさきに下校している。いまごろはもう、荻のおばあちゃんの家でくつろいでいるはずだった。わたしたちも、あと十五分もしたら向かうことになる。


 夏休みに入ったら、この当たり前のルーティンはどうなるのか。毎日のように、友だちの家に遊びにいくと偽って——まったくの嘘でもないけど——家を出ることになるのだろうか。そもそも、荻のおばあちゃんの家に入り浸ることが正しいことなのだろうか。——わからない。


 うわの空で推理小説を読んでいる。伏線を取りこぼして、騙されて、仰天させられるのが目に見えている。


 しばらくして、図書委員長が立ち上がった。もうそんな時間かと思いながら、生徒たちを追い出し、軽く片付けてエアコンと照明を切り、ドアを施錠した。鍵は先輩が持っていってくれるそうなので、莉帆とふたりで階段を下りた。


 無人の教室の前を通り過ぎる。いつかと同じように。しかし、いまのわたしはひとりぼっちじゃない。莉帆がいるし、七波も友だちでいてくれる。なのになぜか、わたしはまだ不安に苛まれていた。明確な理由もなく、ただ漠然と、不安だった。


 外に出ると蝉がうるさかった。暑すぎて鳴く気力も湧かなかったのか、昼ごろは押し黙っていたくせに。


 西に傾いてもなお日は照りつける。日焼け止めを塗った肌がヒリヒリする。首すじを汗が伝いはじめる。


「なあ、赤沢」改まったような口調で莉帆がいった。「ありがと」


「なにが?」


 しばらく答えは返ってこなかった。莉帆はいい出しにくそうに、腕を組んで、頭をかいて、眉を八の字にした。


 けやきの坂を下りきって、交差点を左に曲がった。交番のなかに稲取さんの後ろ姿がちらりと見えた。


「その、赤沢のおかげで、八幡野とまた友だちでいられる、から」


「へえ、そう」


 軽く受け流した。けど、莉帆の言葉の一部に、わたしは強烈な違和感を覚えていた。


「なんだよ、しおらしくお礼をいってるんだぞ、このあたしが。もう少し——」


「『また』ってどういうこと?」


 無視しようとしたけど、できなかった。暑さのせいか、自分自身の制御が効かない。胸に閉じ込めていたなにかが、壁を穿ち、かつ押し広げながら、勢いを増して噴出しつつあった。


「あ、いや、それはその——」


「友だちだったけど、友だちじゃいられなくなったってこと?」


 いやだ。本人のいないところで、こんな話はしたくない。けど、もうわたしの意思では抑えきれない。


「仲良くできなかった理由があるんでしょ」


「なんだよ急に、どうかし——」


「隠さなくてもいいよ、知ってるから」


 自分の声がひどく冷静なのに驚いた。きっと表情も落ち着いているんだろう。まるで、雨の停留所で話したときの、川奈花恋のように。


「『あの子に嫌われると、この町にいられなくなる』」


 強烈な吐きけ。自分の立っている場所がわからなくなる。わたしがわたしから乖離していく。それでもわたしはそこにいて、何事もなかったかのように平然としていた。


「なんでそんなこと、知って……」


「やっぱり、本当なんだ」


 莉帆は傷ついたように顔を歪めた。指さきを紙で切ったとき、人はちょうどそんな表情をする。


「いや、でも……わかってたなら、どうして——」


 莉帆の言葉をかき消すような金切り声が聞こえた。若くはない女の人の、それは怒気をはらんだ声だった。

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