三の四
放課後からわたしたちの活動は再開した。
ヨッシーが先生たちに聞き込みをしてくれるから、こちらは美術部に直撃してみようということになった。一年生の教室が並ぶ廊下を東に行ったところ、一階の北東の角に位置するのが美術室だ。
引き戸をスライドして入ると、そこでは生徒が四人、それぞれの創作に打ち込んでいた。水彩画、粘土彫刻、ガラクタを寄せ集めたようなオブジェなど、統一感はまるでない。
油絵を描いていた原瑞稀が、わたしたちのなかに莉帆の姿を見つけて立ち上がった。
「あ、もしかして、例の件で来てくれたの?」
「放っておけないからな、困ってるなら」
莉帆は得意げに胸を張った。低い身長を補うためか、わずかに踵を浮かせている。
瑞稀のわたしと七波を訝しむ表情に気づいて、簡単に紹介してくれた。まるで家来か従僕のような扱いであったことは、広い心で甘んじて受け入れよう。
「どこにあるんだ、問題の石膏像は?」
「それなら準備室に——」
原瑞稀が身ぶりで示すと、ちょうどそこのドアが開いて誰か出てくるようだった。
「おや、入部希望ですか?」
柔らかく軽やかな声でいったのは、美術の仁科先生だった。全学年の授業を担当しているから、わたしも知っている。
今年からの新任教師らしく——ヨッシーなどとは違い——濃紺のスラックスに淡水色のワイシャツをインしている。肘まで袖をまくった腕が担当教科に似合わずたくましい。髪は短くマッシュに切られていて、いまだ大学生の雰囲気を残している。
「違うんですよー、仁科せんせー」
瑞稀が甘えた声ですり寄っていった。女子に人気のありそうな先生だとは思っていたが、じっさいそうらしい。ついさっきまで大きくなっていた莉帆は、鼻白んで縮んでしまった。
「石膏像、というと、あの変わったブルータス像ですか」
「そーなんですよー」
「ご迷惑でなければ」七波が口を開いた。「先生に案内してもらえないでしょうか?」
「いいですよ。こっちの部屋に置いてありますから」
中途半端に開いていたドアを後ろ手に押し開けて、仁科先生はそのまま後退するように準備室に足を踏み入れる。追っていこうとする瑞稀に対しては、創作に戻っていいですよ、とやんわり嗜めるようにいった。
「そうだぞ、原。あたしたちに任せとけ」
瑞稀は、はーい、とやや不服そうな返事をして自分の作業に戻っていった。
その後ろ姿を目で追っていくと、ひとりの女生徒が手を止めて、こちらの様子を観察しているのに気づいた。像が消える前の日に最後まで残っていた深沢先輩というのが、あの人のことだろうか。
準備室に入ると、最後尾の七波がきっちりとドアを閉めた。
換気用の小さい窓しかない狭苦しい部屋だけど、蛍光管——もうLEDに取り替えられているだろうか——が天井の三箇所に点灯しているから薄暗いとは感じない。備品のほとんどは、整理されて収納棚に収められている。ガラス張りの戸の向こうに見えている円形のものは、版画を刷るときに使う、たしかバレンというのだったか。
問題の石膏像は背の低いチェストの上に置かれていて、よく目立っていた。
「へえ、これが」
七波が像の頭部に手を触れた。高さは七十センチほどあるだろう。想像していたより大きいかもしれない。
「持ち上げてみてもいいですか?」
先生が「どうぞ」と許可するのを待ってから、七波は抱え込むようにして像を浮かせた。石膏だから見た目ほどの重さはないだろうけど、それでも軽々と、とはいかないようだった。
「十キロ近いかな」
つまり、わたしたち並の女子の筋力では、持ち運ぶのも容易でないということだ。
「少し土がついてるかも。それに、細長く擦れたような跡も」
それほど酷くないものの、汚れが付着しているのが見てとれる。底面付近に付着した土。細いなにかが巻きつけられたような薄い線。
「ブルータス像、なんでしたっけ?」
「そう聞いてますね」
「その名前なら知ってるぞ」莉帆が小難しい顔でいった。「たしかあれだろ、『おまえはブルータスか!』ってやつ」
ちゃうわ。ツッコミみたいになっとるやないか。
「『ブルータス、おまえもか』な」
ブルータスは共和制ローマの法務官で、英雄カエサルに反旗を翻した人物のひとりでもある。裏切られたと知ったカエサルが死にぎわに放ったとされているのが、その言葉だ。常識として知っているべきである。
「そうそれ」
くだらないやりとりをしていたら、七波に冷ややかな視線を浴びせられた。
冤罪です。わたしは間違いを正しただけです。
「そう聞いているとはどういう意味でしょう? たしか先生は、『変わったブルータス像』ともいってましたね」
「そうですね。説明するためには、まずは石膏像というものについて、理解してもらう必要があるかもしれません」
仁科先生は部屋の隅にあった脚立に腰を落ち着け、両手を組んだ。
「石膏像を作るためには原形が必要になります。まず、原形となる彫刻作品から雌型を作成し、雌型に石膏を流し込んで成形するんです。ですから、石膏像はオリジナルの模造品とでも呼ぶべきものです。
たいていの場合、原形になっているのは世界的に有名な彫像です。例えばミロのヴィーナスなどがそうですね。その首から上だけを残して造られた石膏像が、ブルータスの隣に並んでいるそれです。しかし、偉大な美術品からそんなに多くの型を取れるはずもないので、石膏像から取った雌型を使った石膏像から雌型を……の入れ子構造だったりします。
そこでなんですが、一般にブルータス像として知られているのは、ミケランジェロの彫刻です。これを原形として、もしくはこれの石膏像を原形として造られた石膏像であれば普通のブルータス像なんですが、どうもこの像はそうではないみたいなんです。たしかこのあたりに——あった」
仁科先生は手近にあった美術の資料集を開き、一枚の写真が載ったページを指し示した。写真の下部には、〈ブルータス胸像(ミケランジェロ)〉とある。
「たしかに、ちょっと違うかも」
どちらも、服装であったり顔の右半分を正面に向けている構図であったりと、大まかな部分は似通っている。しかし、写真のブルータスは精悍な顔つきをしていて、たくましい印象を与えるのに対して、変わったブルータスのほうは険しい表情に深くしわを刻み、たたえた苦悩を吐露しているかのようだった。
美術品を見る目があるかはわからないけど、少なくともわたしにはそう見えた。
「出来のいい作品だとは思うんですが、作者がわからないんです」
出自不明の怖い顔をしたブルータス像。またしても怪しい性質を帯びてきた。瑞稀にしてみれば、初めから像のことを知っていたからこそホラーだったのかもしれない。
「このブルータス像に、価値はあると思いますか?」
「金銭的な意味では、ほぼ無価値だと思います。石膏像というもの全般が模造品でしかない上に、これは原形すらわからないんですから、価値はつけられません。原形となった彫刻作品には、もしかすると価値があるのかもしれませんが」
「ほーん」莉帆はブルータスと額を合わせた。「だとすると、やっぱり演出なのかもな、こいつが動かされたのは」
「演出?」
「だってそうだろ? 像に価値がないなら、動かされたのがこれでなきゃいけない理由がない。そうすると動機は、怪談めいた演出をすること、と考えるのが自然じゃないか」
理屈の通った意見だ。像そのものに動機があるのでなければ、像が動かされたという事実にこそ動機はある。その事実が意味するところは、事件の不可能性も加味するなら、怪奇現象が起きたように見せかけられるということだ。
けど、それが動機なら、いったいどんな犯人が得をするというんだろう。七波が最初に立てた仮説では、仁科先生がホラー趣味だということにされていたけど……。
「どう思う?」
七波に訊いてみるが、返事は「まだ足りない」だった。
「結論を出すにはね。——先生、像がなくなっていることに気づいたのは、朝礼の時間だったんですよね?」
「ええ、その日の授業を準備するために来たときです。見ての通り、なくなっていたらすぐにそれと気づく場所にありますから、おかしいな、と思った記憶があります。前日に鍵をかけてから、誰も美術室には入っていないはずでしたし」
「窓はちゃんと閉まっていましたか?」
「あー……。いや、確認しませんでした。窓を開けたのは生徒たちが来てからだったので、錠がどうだったかまではわからないです。しかし、前日の帰るまえには、確実に閉めるよう、原さんと深沢さんにお願いしました」
「五時間目のあとに、正面玄関のほうに置かれていたというのは知っていましたか?」
「そのときは知りませんでした。六時間目の終わりに、授業を担当していた生徒たちが美術室の前に置かれていると教えてくれて、同時に直前までは正面玄関に置かれていたことも教えてくれました」
この間の仁科先生の行動については、多くの生徒たちが証人になるだろう。そうすると、仁科先生はまったく関与していないか、犯人であるなら遠隔で像を動かすようなトリックを使ったとしか考えられない。
「そろそろ戻らないと」
仁科先生はおもむろに腰を上げた。その体重から解放された脚立がギギッと軋んだ音を立てる。
体格の立派な仁科先生なら、あの石膏像くらいは片手でも持ち運べるんだろうな。
「ありがとうございました」
「いえいえ。原さんも気にしているようですし——ただ面白がっているのかもしれませんが——とにかく、お役に立てたならなによりです」
仁科先生は終始一貫して親切で、協力的だった。彼が容疑者のひとりとは、あまり考えたくない。
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