三の五
美術室の窓にも〈灰色の箱〉は取りつけられていた。夜間に侵入するのは不可能、ということはまず間違いないようだ。
莉帆はつぶさに窓を調べながら、しきりに隙間を気にしていた。
「やっぱ糸だよな、密室のトリックといえば」
閉じた状態で外側から解錠する方法について考えているらしい。錠の形状は一般的なクレセント錠で、隙間から糸を通せるならそういう仕掛けはありえるかもしれない。
「けどさ、帰るまえに部員ふたりでチェックしたらしいじゃんか。糸が張ってあって気づかないなんてあるかな」
傍観しながら否定するわたしに莉帆は、見えないほど細い糸なら、と苦しい言いわけをした。
「そうとでも考えないと説明つかないだろ。犯人は窓から侵入するしかなかったんだ。ドアは仁科先生が鍵をかけたんだから」
仁科先生が犯人でないとするとそうなのかもしれない。莉帆が躍起になるのもわかる。けどわたしは、窓そのものは大して重要じゃないんじゃないかと思う。なぜなら——。
美術部の作品を鑑賞している七波を見た。コイツが興味を示していないということは、答えはそこにない。なんて考えるのはズルだろうか。
七波はふらりと歩いて、鋭意制作中の作品を背後から覗き込んだ。私も肩を並べてみる。
瑞稀が手がけている油絵は、夏の空と海と砂浜を、鮮烈な青と白で描写したものだった。手前には水着姿の若者も配置されている。こんなにも清々しい光景のはずなのに、なぜかわたしはその絵に重みを感じた。気味の悪さ、というべきかもしれない。それは人物の動きや表情のせいか、空が明るいほど濃く落ちた影のせいか、はたまた単純に実力不足によるパースの狂いのせいかもしれなかった。
原因を探りながら砂浜の続くさきを追っていくと、そこでわたしは思考停止せざるをえなかった。遠景に描かれた窓のない四角い巨大な建造物は——あれは原子炉だ。
くらくらして頭が痛くなってきた。瑞稀の絵のせいか、それとも——。
「先生、ちょっと外で休憩してきます」
ひとりの生徒が立ち上がった。準備室に入ったときこちらを窺っていた先輩だ。この距離なら名札が見える。月曜日に瑞稀と最後まで残っていたという深沢先輩がこの人で間違いなかった。
「あなたたちも一緒に行かない? 美術室の空気は、慣れないと気が滅入るでしょ」
深沢先輩のいう「あなたたち」は、おもにわたしのことを指しているようだった。もしかして、気を使わせてしまったか。
「あ、はい」
間抜けた返事をしながら、深沢先輩の描いていた絵に視線を投じた。居室の一角のような、棚に並べられた雑貨類を描いただけの、優しい水彩画だった。瑞稀のビビッドな彩色とは対照的で、淡い暖色が大部分を占めており、なおかつ透明感がある。
ユニークな小物が並んでいるけど、なかでも画面左がわに描かれた人形はとくに面白かった。あれは、マトリョーシカと呼ばれる、人形のなかに同じ姿をした小さな人形が入れられているものだ。深沢先輩は、薄い水彩絵具で重ね塗りすることによって、人形の内側をうっすらと透けさせているのだった。
なおも窓に張りついていた莉帆を引きはがし、先輩に連れられて正面玄関から外に出た。そのまま東から校舎を回って美術室の北側へ。校舎の周囲は舗装されているから、上履きのままでも問題ない。
「油絵具には揮発性の有機溶剤が使われていて、あまり蒸気を吸いすぎるとよくないんだって。だからわたしは、たまにこうして外で休憩するようにしてるんだ」
そういって深沢先輩は深呼吸した。ペンキにはシンナーが使われていると聞いたことがあるが、それと同じようなことなのだろう。
先輩にならって肺の中を外気でいっぱいに膨らませてみると、いくらか気分がよくなった。湿った空気だけど、屋内よりはいくらか清々しい。校舎の北には〈農園〉があるし、さらにその奥には山がある。低いフェンスに隔てられた向こうがわは神社の敷地なのだそうだ。
「付き合わされて大変だね、あなたたちも」
美術室まで聞こえないような声量で、深沢先輩はいった。
作品の優しい雰囲気に似つかわしい人物だ。後ろ髪をポニーテールにして、前髪はぱっつん、その両サイドに触覚を顎のあたりまで垂らしている。話しかたがゆっくりで、美術部の面倒見のいい先輩としての姿が容易に想像できる。
もう少し歩いて美術室から遠ざかると、深沢先輩は声量を普通に戻した。
「原さんはいい子なんだけどね。ただ、なんでもないことを騒ぎたてるのが趣味っていうか」
「なんでもないこと、だと思うんですか?」
七波がさりげなく探りを入れた。
「それはまあ……。美術室前にいきなり現れたのは、さすがに驚いたけどね」
六時間目に美術の授業を受けていたのは、深沢先輩のクラスだったのか。
「じゃあ、深沢先輩はあの石膏像について——」
七波は自然な流れで取調べに移行させていった。
ひと通り、仁科先生に対するのと同じような質問が繰り返されている途中で、わたしは気配を消して、ひっそりと身を引いた。どうやら新しい手がかりは出てきそうにないし、ほかに気になるものを見つけてしまったのだ。
農園で土をほじくり返している、というと語弊があるかもしれないけど、とにかくそこにいる数人の生徒のなかに、二日前の朝と同じ人物を発見したのだった。校門に立っていたヨッシーも証言していた、園芸部の東山さんという上級生の男子生徒だ。わたしより早くから登校していたなら、なにか知っているかもしれない。
声をかけるべき、だろうか。
できるのか? このわたしに?
正直、かなりハードルが高い。顔見知りではないし、先輩だし、なおかつ男子である。どうしたってぎこちなくなるだろうし、後悔する未来が鮮明に見える。
東山先輩が汗をタオルで拭い、校舎の近くまで来て地面に腰を下ろした。
わたしは、ここまでなんの役にも立っていない。深沢先輩が「付き合わされて」といっていたけど、本当にただ付き合っているだけではダメな気がする。なにかしらの役割、というか、探偵でなくても、わたしがここに存在する価値のようなものが、なにかあったほうがいいような、そのために少し冒険してみてもいいような……。
こちらに気づいてもらえるようにわざと足音を立てて接近し、意を決して「あの」と声をかけた。
「東山先輩、ですよね」
タオルを肩にかけて緩慢に振り返り、彼は「え?」と一音だけ発した。
当然の反応だ。わたしは相手の名前と容姿くらいは知っているけど、向こうはわたしのなにも知らないんだから。
「ちょっと訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「はあ」
東山先輩は憮然とした表情でポケットに両手を入れて立ち上がり、一歩こちらに近づこうとして——わずかな段差につまずいた。とっさに反対の足が出て転倒は回避したものの、それが間に合っていなければ顔から地面に突っ込んでいるところだった。しかしなに事もなかったように姿勢を立て直すと、あごを上げてこちらを見返した。
見栄を張りたいらしい。彼にしてみれば面識のない後輩に声をかけられたわけで、気取ってしまう気持ちもわからなくはない。まるで様になっていないのは、慣れないことをしている証拠だ。
気負っているのがわたしだけでないとわかると、肩の力が抜けて、自然と次の言葉が口をついて出た。
「三日前、火曜日の朝のことなんですけど、早い時間に登校してきて、ここに立ってましたよね」
「あー、雨上がりの朝だっけ。なんで知ってんの?」
「わたしも早く来ていて、そこの廊下から見たんです。——それでなんですけど、なにか不審なものとか、気になったこと、なかったですか?」
筆と墨汁で線を引いたような濃い眉をひそめて、東山先輩は沈黙した。日本人離れしているといっていいほど、目鼻立ちがはっきりしている。深刻そうにしていると、まるで準備室のブルータス像のようだった。
「なんもなかったと思う。誰もいなかったし、農園に入られた様子もなかった」
そうだった。わたしも農園を見て、足跡すらないと思った記憶がある。
「いつまでここにいました?」
「することもないからここで時間を潰してた。普通の登校時間になってからアイツ——そこでネコ転がしてるやつ——が来て、一緒に教室に行ったけど」
ネコ?
じゃなくて、その話が本当なら、像を動かせた時間や条件はさらに絞られる。この位置からは美術室の北向きの窓がはっきりと見えるのだから。前日の午後六時から七時と、朝の東山先輩が来るまでの長く見積もって十数分、もしくは仁科先生がやったかの三通りしか考えられないんじゃないか。
「あれ、東山くんと知り合い?」
背後から声をかけられたと思ったら深沢先輩だった。もう聞き取りは終わったらしく、七波と莉帆はふたりでなにか話し合っている。
「あ、いえ。ブルータス像のことで質問を——」
「ブルータス像?」東山先輩が険のある声でいった。「それって美術室あれのことか」
そうですけど、と答えながら、園芸部がなぜ知っているのかと疑問に思っていると、すぐに深沢先輩が答えを教えてくれた。
「東山くん、元美術部だから」
「いやなことを思い出させるなよ」
東山先輩はさらにポケットの深くに手を突っ込んで背中を丸くした。よほどいやな記憶だったのか、眉が寄りすぎて一本の太い線になっている。
「なんで辞めたんですか?」
軽はずみにそう訊いて、すぐにやめておけばよかったと後悔する。忌々しい過去を掘り返されて喜ぶ人間なんているはずないのに。またわたしはやってしまった。
重い沈黙。そして、東山先輩は吐き捨てるようにいった。
「裏切られたからだよ、先生に」
「ちょっと、そんないいかたしなくても」
「本当のことだろ、嘘をついたんだから」
先生とは美術部の顧問のことだろう。部活を辞めてしまうほどの嘘、裏切りとはいったい……。
東山先輩は農園に戻っていった。どういうことかと深沢先輩に尋ねようとするも、悲しげに落とした肩が訊くなと拒絶している気がして、わたしは開きかけた口を閉じた。
ぎこちない雰囲気のまま深沢先輩とも別れ、七波と莉帆とともに校舎の陰に取り残されてしまった。
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