第6話 鮮緑5(別視点)
「あ――――――ああ――――――」
そんな筈がない。そんな筈があってはいけない。
そんなことは、とても許されない。
あれほど恨んだ病魔のその根源が自分にあったなんて、到底。
『おとうさま』
自責の念が呼び醒ますのは、残酷にも愛娘の笑顔だ。
舌っ足らずな声で、何度も君は呼んでくれた。
そうして慕う相手が実は自分を苦しめていたなんて、ほんの少しも疑わないで。
がたん、と音がする。それが、自分が崩れ落ちた音だと気がつくのに幾ばくかの時間を要した。
同時に誰かが叫ぶ声。遠ざかる足音。
逃げ出したヤニスとそれを追いかける少女の姿も、まるで壁越しに垣間見る程度にか知覚できない。
「――そんな、だって」
震える手が、鮮緑の掛布を握り締める。
宝石を贈った日。新しい本を贈った日。
劇団を呼んだ夜、身を乗り出して魅入っていた君の横顔。
初めて作った不格好なぬいぐるみを、君は大切そうに抱きしめてくれたね。
『幸せ』に満たない当たり前すら得難い君のために。
君が欲しいと言ってくれるのなら、君が笑ってくれるのなら、何でも全て。
私たちはどんな君でも愛しているよと示すように、彼女の緑を与えたかった。
『おとうさま』
療養地に越して来てから日に日に弱っていく彼女に胸が締め付けられた。
多くは望まない。望んでいないはずだ。
ただ、当然のように明日を生きて。人並みの幸福と、人よりも少し多く笑える人生を。
――あの人が残してくれた、たった一つの生きる理由だったのに。
世を恨んだ。神を恨んだ。運命を恨んだ。
『どうして』を幾千回。
けれど。最も恨まれるべきは、最も責められるべきは、自分自身だったじゃないか。
ああ、そうか。 治癒魔術では治らないはずだ。
原因(みどり)は、私がずっと娘の傍らに置き続けていたのだから。
「すまない」
「すまない、イリス」
謝っても済まされない。
「知らなかったんだ、私のせいで」
「君がずっと苦しかったのは、私のせい」
知らなかったでは許されない。
「私が……お前を……っ」
彼女の苦しめる全てを殺してやりたかった。
彼女を苦しめた私は死んでしまいたかった。
混み上がる自責の念は、殺意のように身の内側を灼いて。
――断頭台なんて生温い。
僅か数十秒苦痛に苦しんだ程度で贖いになるなど、到底考えられない。
今すぐナイフでバラバラにして欲しかった。それができないのなら、爪でも歯でも何でも。
「……おとうさま」
――けれど。天上から処刑台へ、蜘蛛の糸が降ろされるように。細く痛ましい手が、父親の手に触れる。
「いいの」
「いいのよ、おとうさま」
温かい、と思った。
小さなその手は、父親の手のひらを包み込みきれない。だから代わりに、人さし指をしっかり握り込んで。
「わたくしね。おとうさまが、わたくしのこと大好きなの、ずっと知ってたわ」
幼い少女に、大人の話がどれほど理解できていただろうか。きっと、小指の爪先ほども理解できていなかったかもしれない。
「おとうさまがたくさん大切にしてくださったこと、ずっと知ってたの」
まだ幼い彼女に難しい学問の話はわからなかったけれども。けれども、大好きな父親の事は、誰よりも一番に分かっていたに違いない。
父親が大切にしてくれていること。愛してくれていること。甘やかしてくれていること。
――それが今回、たまたま、悪いほうに転んだのだと。
イリスは父親よりもきちんと事態を受け止められていた。
少女は舌っ足らずな声で、父親を真っ直ぐに見つめる。懸命に笑う若葉の瞳と視線が交差し、酷く痛んだ。
君の瞳をみると、どうしてもあの人のことを思い出す。
『ねぇ、あなた』
――あの人の声を思い出す。
ある初夏の午後。仄明るいサンルーム。
臨月を控えたあの人が小鳥のように笑っている。
『この子のお名前はもう考えて下さった?』
――まだなんだよ。ずっと決められないんだ。だって、初めての贈り物だから。君との宝物に贈る、初めての。
『もう、あなたったら』
出会って間もなく永遠に別れてしまった母娘(ふたり)。
それだというのに君たちの笑顔はどうしてこんなにも似ているのだろう。
「……っ、すまない、イリス……でも、とても。とても許せそうにないんだよ……君を苦しめた人間を許せそうにないんだ。私には父親の資格がないんだ、こんな人間は死ぬべきなんだよ」
――だって、あの人に顔向けできない。
誓ったのだ。君の分まで守り、愛し、慈しみ、見守ると。
けれど蓋を開けてみればご覧のザマで。
であれば最も重要な幸福を――彼女の父親である資格を取り上げることでしか、贖えないんだ。
無意識に、娘の頭に触れようとして、手を留めた。
もうそんな資格がないことを知っていたから。
けれどもイリスは、固まったその手をぎゅっと握りしめた。
「――例えおとうさまと言えども、わたくしのおとうさまの悪く言うのはやめて」
少女らしからぬ凛とした声だった。
「死んでしまうだなんて言わないで。そんなかなしいことは言わないで。わたくし、『あがない』なら死んでしまうことより、また絵本をいっしょに読んでもらえるほうがずっとうれしいわ」
――ああ、そうか。
君は当然のように、私との明日を夢見てくれるんだね。
――それは、なんて残酷で、憐れで……温かい……。
「ねぇ、おとうさま。またいっしょにご本、読んでくださる……?」
「っもちろん……勿論だよ」
「元気になったら、ピクニックに一緒に行ってくださる……?」
「……っ、うん。わかった……必ず」
娘の小さな手に、己の手を重ねる。今度は、確かに。
「約束だ……」
小指を絡めて約束する。
少し、不格好になってしまったけれど。
「君が望むものを、なんでも」
晴れた日にはピクニックを。
曇りの日には絵を描いて。
「君が願うものを、いつでも」
風の強い日には草原を歩いて。
雨の日には共に本を読もう。
「明日という贈り物を、何度でも君に」
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