第7話 鮮緑6
「――おい、待て。ヤニス……!」
脂肪を溜め込んだ腹を震わせて、野ウサギを思わせる機敏さで逃げ荒ぶヤニス。どこにそんな筋力を隠していたのかと問い尋ねたくなる速度だ。
でっぷりと肥え太った饅頭は、呼吸する間もなく部屋を飛び出し長い廊下を駆け抜けていく。
私はもう一度髪紐を解くと、神力を流し込んで横薙ぎに放つ。
――梟じゃだめだ。軽い体ではいなされてしまう。
――熊じゃだめだ。勢い余って殺してしまう。
「ああもう……! 『悪役令嬢』は廊下を走ったりしないんだけどな!」
髪紐が地面に着地する刹那、転じて生まれた狗が咆哮を上げる。震える空気に前方の影が跳ね上がるのが見えた。
「ッ、狩りの時間だ。いけ! 殺すな――ぁ」
月の加護を受けた猟犬は、主人の微かな体の動きを標的を悟り駆け出そうとした。
しかし命令(オーダー)が下されない。ぴょん、と跳ねてみるが主人の関心は前方に釘付けのまま。
それもそのはずだ。なにせ、逃亡者は既に壁に押し付けられ、後ろ手にねじり上げられていたのだから。
「エンディミオ……!」
「まったく……はぁ、なんの騒ぎですかこれは」
***
「はぁ、なるほど。では『これ』が近頃の我々の激務の諸悪の根源だというんですね、アルテミシア様」
大方の事情を聞いたエンディミオは、ヤニスを締め上げる力を強めた。ぎりぎり、と聞こえてはいけない類いの音が聞こえてくる。
「根源、ではないな。あくまで共犯者の一人というべきだろう。商会は毒物でヤニスに仕事を与え、ヤニスはその伝手と事実の黙秘によって商会を潤した。将軍が娘の色だからと買い与えるほど、医者も商会も儲かるわけだ。持ちつ持たれつ、実によくできた商売だな」
「……関係者である時点で万死に値します」
――それはそう。
内心で同意してしまったので、私はエンディミオの鉄拳制裁を止めることができなかった。
エンディミオは心ゆくまで【自主規制】をしたあと、鮮やかな手口でヤニスを縛り上げた。
恐るべし月の半神の従者。あまりにも手慣れすぎている。
当のヤニスはと言えば、抵抗は無駄だとありありと実感したのだろう。ヤニスの顔からは先ほどまでの尊大さは霧の如く消え失せ、反抗の片鱗も見えない。
その割に、エンディミオの表情は未だ晴れやかには至らなかった。
「『月の半神』ともあろうお方に暴力を振るうなど死罪に値しますが……はぁ、この程度で勘弁してやりましょう」
「暴行って……大袈裟だな。胸ぐらを掴まれて持ち上げられただけだよ」
「十分に暴行です。……ですが、もとを正せばアルテミシア様が俺を出し抜いて居なくなったりしなければ起きなかった話ですから。これからしばらくはうぜぇくらい張り付きますので覚悟して下さいね」
「怒りの矛先がこっちに……」
いつもの慇懃でキザな性格から一転、どこか人柄が違うように見えるが、そこは触れてやらないのが主人としての配慮(やさしさ)だ。ズルズルと縄の先にヤニスを括り付け、エンディミオが引き摺り歩く。
「さてと。で、この不届き者はどうしますか? 将軍様に引き渡すのでよろしいので?」
「そうだな」
言いながら、私とエンディミオはこっそり部屋の中を覗いた。床のヤニス、中腰の私、背の高いエンディミオと3つの顔が覗くのだから傍から見ればお団子のような姿だったに違いない。しかしそれを観測する者は居ない。イリスの室内では、父娘二人仲良く寄り添っていたのだから。
「……邪魔しないようにしようか」
「それもそうですね」
あれは父娘の大切な時間だ。こういう時は、きっとカミサマの出番じゃないのだろう。
カミサマにできることはと言えば、二人の時間を見守ってあげることくらいだ。
「では、太陽神の神殿にこの者の身柄を引き渡しましょう。確かあの神殿には『伝令の半神』の転移装置があったはずですから、あとは神殿が将軍様と相談の上『知恵の半神』の法廷に護送してくれる事でしょう。そろそろ日暮れですし、船がなくなる前に我々も帰らないといけません」
気がつけば、暮れ泥む夕焼けの世界がここキュートスにも齎されようとしている。蜂蜜のような黄昏が館を包んでいた。
「うん、それがいい。あ、でもこれからのお嬢様の対応について誰かに伝えておかないと」
「なら、家令のヨルゴスさんがよろしいかと。それからお嬢様付きの侍女の方にも……ああ、噂をすれば」
前方からパタパタと焦った足音が二つ聞こえる。
血相を変えた初老の男と、昼頃に出会った使用人の少女はこちらの姿を見留めると明らかに安堵の色を浮かべた。恐らくは、将軍から接待、もとい監視を任されていたのだろう。……こっそり抜け出してしまったわけだが。
肩で息をする初老の男、家令ヨルゴスは苦い笑顔を浮かべて口を開いた。
「お二方……こちらにいらっしゃったのですね」
「ああ、今しがた戻った。将軍様とも少々お話をしたよ。ところで、お嬢様の治療について伝えておきたいんだが」
そう言うと、家令の目の色が変わる。彼らは慌てて蝋板(メモ)を取り出した。
私は事の顛末――体調不良の原因である顔料について簡単に伝えてから、やるべきことを列挙する。
「まずはとにかく顔料が使われているものからお嬢様を離すこと。幾ら治癒魔術が万能でも、毒物が供給され続ける状況では再発するからな。撤去作業については粉塵に注意すること、君たちも毒に晒されては元も子もない。それから衣服や掛布、天蓋にも鮮緑の顔料を使っていたようだから、粉が衣服や髪に付着している恐れがある。まずは身を清め、新しい衣服に着替えさせてくれ」
家令はともかく、下働きの使用人(メイド)ともなれば識字率はそれほど高くないはず。しかし彼女が当然のようにメモを取れるのは、将軍による教育が行き届いている証拠だろう。
それに気がつくと、あの生真面目な将軍の顔を思い出し思わず頬が緩んだ。
「症状に吐き気や下痢があったようだから、しっかり水分を補給させること。水分不足も心配だが、何より十分な水分を摂らせて腎臓が毒を排出しやすい状態を保つのが重要だ」
「腎臓、毒、ええっと……」
「とにかく、しっかり水分と栄養を欠かさず摂らせてやってくれれば大丈夫。これからぐんと暑くなるしな。言うまでもないが食事も、粥や滋養のある汁物から始めて体力がつけられるように。これらは君たちの方が詳しいだろう」
こくん、と少女が頷いた。使用人たちにとっても、イリスは大切なお嬢様なのだ。
毒に体を侵されていた割にイリスの肉付きがそう悪くなかったことを思い出すと、きっとこれまでも四苦八苦しながら食事を取らせていたのだろう。いつの日か、少女が元気に走り回れる日を願って。
「あ……それから本もだな」
「本、でございますか」
「本棚の中にも、同じ鮮緑の装丁のものがあった。装丁職人に依頼して革製装丁を施し、綴り直したんだろう。あれの染色にもおそらく鮮緑の顔料が使われているから回収してくれ」
ページを捲る時、指を舐めるという習慣が残っている地域も多い。背表紙の毒に触れた手を舐めるなど自殺行為にも等しいことは言わずもがな。
「それから最後に、撤去した顔料たちは燃やさないでくれ。焼けば煙が毒になる恐れがある。処分の際には神殿へ回してくれ。各地の神殿にはよくよく言い含めておくから」
これに関しては少々の打算もある。これらは毒物であると同時に重要な証拠品でもあるのだ。帳簿は将軍家がつけているだろうし、神殿を通せばいつどこで誰がという回収記録も残る。
――これで、金の亡者たちに一矢報いれる。
全領土での回収と補償が決まれば、今回の件のように知らず知らずのうちに苦しめられていた人々の救済になるはずだ。
「畏まりました、使用人全体と旦那様にしっかりとお伝えしておきます」
「ああ、そのように。それから私達は船の時間があるからそろそろ出立しないといけないんだ。だから将軍には私の代わりに、くれぐれも自分を責めすぎるなよと伝えてくれ。あんなのほとんど災害みたいなものなんだから」
確かに顔料の中には毒性物質が含まれているものも少なくない。しかし誰がそんなことを予見できるだろうか。彼は自分自身を責め立てていたが、あれはむしろ法の抜け穴と悪意が生んだ被害者なのだ。
私がそこまで語ると、不意に傍らのエンディミオが振り返った。その仕草に私もつられて振り仰ぐ。
エンディミオの視線の先にあったのは父親に抱えられたイリスの姿だった。
「もう出立するのか」
将軍が鼻声でそういう。赤く腫れた目を見るに、相当号泣したのだろう。娘がぺったり身を委ねているのを見るに、仲直りはきちんとできたようだ。
家令は一度頷いたが、はたと驚いて口を開いた
「本当にもう出立されるのですか?」
「ああ。キュートスには宿がないから……太陽神の神殿にこれ以上世話になるわけにもいかないし」
太陽神の神官たちはある事情から反美神意識が強く、何より親月神派である。月神が屋根を貸して欲しいと願い出でれば喜んで手を貸してくれるだろうがそれも申し訳ない。
「いや……『月の半神』様をお迎えするには分不相応な屋敷だが、部屋の用意も……私はまだ『月の半神』様にご挨拶もできていないし」
「そこまで迷惑をかけるわけには。これから忙しくなるだろうし。それに父娘が睦まじく過ごせる時間は貴重だ。イリスがもう少し大きくなったら思春期(パパきらい)がくるかもしれないしな」
「え」
固まった将軍を横目に私はイリスに近寄る。
――私たちは、運が良かった。
生来の虚弱は魔術ではどうにもならない。見方を変えれば、毒物であったからこそイリスは助かるのだとも言える。
元々、キュートスに来る前は回復傾向にあったそうだから、毒物に触れないようにさえすれば他の子どものように過ごす日も夢ではない。そこばかりはキュートスの地脈に期待しよう。
「イリス、お前の旅路に祝福を。これまでのようによく父を愛し、しっかり手を握ってやるんだぞ。お前の父親は危なっかしくて仕方がない」
顔をぽぽぽと赤く染めたイリスが何度も何度も頷いた。
つられて私も微笑むと、エンディミオの急かす声が聞こえる。
太陽は山の端にかかり、月女神の時間が訪れる。
その前に我々は太陽神の神殿へ向かうと、遠くなった屋敷の門の前でイリスが手を振っていた。
「ばいばい! お月さまの神様! わたくし、きっとお手紙をかくわ!」
「――――――は?」
硬直する将軍の顔は生憎夕闇に呑まれ定かではない。
けれどもきっといい顔をしてくれていることだろう。
「っ……あはは! 見たか、エンディミオ。あの将軍の反応……っぷ、ふふ、あはは!」
「散々アルテミシア様の悪口を言ったそうじゃないですか。いい気味です」
かくして、キュートスに穏やかな夜が齎された。
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