第4話 鮮緑3
将軍が娘の部屋の扉を押し開けると、私――アルテミシアは部屋に満ち溢れる鮮やかな緑に目を眩ませた。
緑の顔料で彩られた壁、緑の絨毯、部屋の隅に飾られたドレス、天蓋からソファーに至るまでの鮮やかなエメラルドグリーン。
それだけの鮮緑に囲まれているというのにも関わらず、しかし、シーツの海から身を起こした少女の若草の瞳は何にもまして輝いているように見えた。
少女イリスは我々の再来に目を丸くしていたが、私がしぃと立てた人差し指を己の口元に寄せると、彼女もまた賢明な顔で指を寄せた。
「閣下、その娘は……」
イリスのベッドの側で怪訝そうにこちらを見つめる男が一人。恰幅のいい中年の男がぎろりとこちらを睨めつける。
どうやら治癒魔導師であるらしい彼は将軍の「『月の半神』の従者だ」という説明に、不満を見せながらも渋々黙した。そうして、検診を終えたばかりなのだろう、散らばる魔導具をせかせかと鞄に詰め直している。
「(……やっぱり蒸し暑いな、この部屋は)」
庭の噴水の影響だろうか、乾季の割に室内は噎せ返るような湿気に包まれている。寝たきりの我が子のため、どうにか楽しませてやりたいという親心なのだろう。
――それにしても、凄まじい溺愛ぶりだな
私は苦笑いを噛み殺すのに必死だった。
――誰かさんのことを思い出す
私は物思いに一度終止符を打ち、将軍を振り仰ぐ。
「症状は頭痛と腹痛、それから日によって吐き気と下痢。それから咳……で、間違いないか?」
将軍はこくりと重々しく頷く。何ぞ思うところもあるのだろう、苦々しそうな顔をしている将軍を無視して私は壁に近寄る。
漆喰の壁には鮮やかな緑の顔料で動物や植物たちの姿が描かれている。壁画と言えば神々や半神を描くものが多いが、これは娘を慮ってのことだろう。
「(……毎日辛くて苦しくて、ずっと病魔に苛まれているのに。ちっとも助けてくれない神様の姿なんて、見たくもないよな)」
彼女の苦しみが生来の体質から来るものであれば、やはり神の奇跡でもないと救うことはできない。今回ばかりはそうでないことを祈る他なかった。
私は視線を移して今度は天蓋の布に触れる。これもまた全く同じ鮮緑である。多少色の濃淡はあれどこの部屋の緑はどうにも全て同じ顔料であるように思えた。
「……発色のいい品ばかりだな。これはいつから?」
「1年前……丁度キュートスに屋敷を建てる際に、贔屓にしているベリル商会でこの鮮緑の顔料の発表があることを聞いた。イリスの瞳と同じ緑だったからな、多少無理を言って先行して手配してもらったものだ」
――ああ、やっぱりか。
西方の新興の商会が珍しい人工顔料を発表した、という話は私も耳にしたことがあった。天然顔料では到底なし得ない鮮やかな発色であるために、令嬢の間で流行したとも。
私は振り仰いで問い直す。
「贔屓に? ベリル商会は比較的新しい商会だと聞いているが……」
「ああ……言い方が悪かったな。ベリル商会は当家のお抱えの治癒魔導師……そこのヤニスの親族が新たに興した商会なんだ。だから正確にはその一族と古くから縁があるということになる」
ふん、とヤニスと呼ばれた治癒魔導師が鼻を鳴らす。それに合わせてぽよ、と腹が動くのであまり威厳は感じられない。
小娘に自分の領域を荒らされるのが余程許せないらしい彼は、荒い足音でこちらに詰め寄ると威圧的な声色で言い募った。
「いきなり乗り込んで来ては、わけのわからぬことをずけずけと……! 将軍様とお嬢様に失礼ではないか!? 将軍様、あのような小娘の戯言に耳を貸す必要などございませんぞ!」
「はじめまして、ヤニス殿。貴方にも幾つか確認したいことが――……」
差し出した手をヤニスが払い除ける。ぱんっと乾いた音が室内に響いた。
ここにエンディミオが居たのなら、まず間違いなく氷漬けにされていただろうが、控室に置き去りにしてきている。幸か不幸か、彼は命拾いをしたらしい。
「なんだ? 医者気取りか? はぁ……小娘、無駄なことでお嬢様の貴重なお時間を奪うのはやめるんだ」
「無駄」
「そうだ。お前はよく知らないだろうが、お嬢様は生まれつきお身体が弱い。お可哀想なことに何度も生死の境を彷徨ってきた。だからこのような頭痛や腹痛の症状は季節の変わり目にはよくある。体質が原因じゃ、当然どれほど高名な医師でも治せまいよ。それとも何だ? お前はどこぞの名うての魔導師だと?」
お前のような小娘が? と口にまではしなかったが、そんな嘲りがありありと伝わってくるようだった。
――威嚇は余裕のなさの裏返しだ。
どうやらこのヤニスとかいう治癒魔導師は、随分自分に自信がないらしい。あるいはよほど不都合な事があるか、だ。
「……いや、私は駆け出しの医者に過ぎないが」
「素人が口を挟んでいい問題じゃないんだ。どうせ役に立たん癖に余計な口を挟みおって……」
「でも、役に立たないと言えば。治癒魔導師の貴方が居てもなお、お嬢様の状態は悪化してるじゃないか」
瞬間、ヤニスの顔が茹で蛸に染まる。しかし反論の二の句が継げない。事実であることを自覚しているからだろう。
さらには将軍の手前、怒鳴り散らす事も出来ず、彼は反抗的にこちらを睨みつけながら押し黙った。
それを見届ける気もなく、私は構わず言葉を続けた。
「それで……壁も絨毯も天蓋もドレスもすべて、1年前にベリル商会から?」
「壁の顔料と天蓋は発表前に取り寄せたものだ。絨毯とドレスは後から……」
私の言葉に将軍は怪訝そうに顔を顰める。が、しかし間もなく耐えきれずに苦々しそうに口を開いた。
「悪いが、ヤニスの言ったのも一理あると私は思っている。実際、君の主人に何ができる? 君たちもまた被害者なのは……論理的には理解している。神殿に言いつけられて来たんだろう? だが正直に言って迷惑だ。人と面会するのだって体力がいる。役に立たないのなら立たないなりに、娘を慮ってくれないか?」
「(愛娘の前の割には結構遠慮がないな、この男……)」
人は追い詰められれば本性が出る、などとは言うが私はとてもそうとは思えない。
娘と比べれば随分健康に分類できるが、将軍自身もまた酷く痩身で顔色が悪い。上品な仕立ての衣服がどうにも彼の体躯にあって居ないのを見るに、近頃はめっきり痩せてしまったのだろう。憔悴しきっているのは一目瞭然だ。
――こんな状態の人間の振る舞いを『本性』だなんて、とても。
愛娘が生と死の狭間を彷徨う、そんな状況が8年だ。気を病まないはずもない。
私が言い返さないのをみて肯定だと受け取ったのか、将軍は顔を歪めて更に言い募る。一度吐き出してしまったために、上手く言い留められないのだろう。
「――更には約束の時間にも遅れてくる。どうせ神々の尺度では民の命一つなど取るに足らないのだろうさ」
そんなはずはない、本日中に到着すると確かに伝えたはずだ――そんな言葉を私は飲み込む。
最早特段、珍しいことでもないからだった。
これもまた『美の半神』の嫌がらせ、正確にはその毒牙にかかった一部の神官による妨害だ。
よほど、他の半神の評判を上げたくないらしい。
――皆が皆、悪い人というわけではないんだが
むしろ半神を敬い、よく仕えてくれる忠実な信徒の方が多い。けれども白紙の上のインクの染みの様に、悪意とはただ存在するだけで目立つのだ。
ともかくこれは神殿側の問題であって民衆(かれ)に責任はない。反論は野暮というものだった。
「そのくせ挙句の果てには、あの半神、『緑だな』と呟いたばかりだと言うじゃないか」
「(そうは言われてもな……)」
何せ全ての原因がこの『緑』なのだから致し方あるまい。
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