第3話 鮮緑2(別視点)
「――そうだ。おとうさま、悪役令嬢って知ってる?」
「ああ、イリス。知ってるとも、流行小説の話だろう?……でも今日はその話を口にしてはいけないよ。今日は『月の半神』様が御屋敷においでになられるからね」
病床の淵で、少女は天使のように笑う。
イリスと呼ばれた幼い少女は、父親の言葉を飲み込もうとして、こてんと首を傾げた。
「どうして? どうしてお話ししてはいけないの?」
「ああ……すまない、イリス。お前は長く病床に伏せているから外の事情には疎いんだったね。『月の半神』様は近頃の帝都では悪役令嬢と噂されているんだよ。もし半神様のお怒りに触れたら困るだろう?」
――近頃聖都で目立つもの。魔導具、歌劇に、悪役令嬢。
そんな謳い文句は帝都を超え、ここ、穏やかな療養地として知られるキュートスにまで響いている。
我が子の小さく細い手を握りながら将軍はそう微笑むと「半神様が到着されるまではまだ時間があるから」ともう暫くの眠りを促して退出した。
娘イリスは父の言葉にこくんと頷いたけれど、あの様子では、また侍女にねだって本を読んでもらっている事だろう。
そんなところも愛おしい、と将軍は目を細める。
亡き妻はイリスを産んで間もなく、産褥で冥府へと旅立った。
忘却は残酷だ。あれほど愛した声も、仕草も、笑顔も、時間は少しずつ輪郭を奪っていく。八年前にはありありと思い出せた妻の笑い声も、今となっては片鱗程にも思い返せない。
けれど、イリスの若草の瞳だけはその目と目が合うたびに、将軍を過去へと連れ戻してくれる。
――ああ、そうだった。君もこんなふうに笑っていたね。
その面影を追うように、将軍は今日もまた娘を甘やかしてしまう。
買い与えた新しい本を抱きしめてイリスは笑う。
その笑い方が、亡き妻とよく似ていた。
嬉しくて、翌週には劇団を呼んだ。
イリスは久々に身を乗り出して興奮していた。
その翌月には緑のドレスを仕立てた。
お洒落の出来ない体でもせめて見て楽しめればいいと思って。
彼女と幾つもの季節を乗り越えて。
そんな夢のような日々の名残りが――あの贈り物で埋め尽くされた部屋だった。
「(……また、悪役令嬢の本を追加で取り寄せようか。劇団を呼び寄せるのもいいかもしれないな。キュートスは静かな療養地だが……些か退屈が過ぎる)」
そう思案していると壁越しに、こほんこほん、と小さな咳の音が聞こえる。
将軍はその音で現実に引き戻され、苦痛に顔を歪めた。
亡き妻がそうであったように、娘イリスもまた病弱に生まれて来た。将軍は娘のためにあらゆる方法で手を尽くした。幸運なことに、それを実行できるだけの財産と伝手が彼にはあったから。
――どうか、娘が幸福な人生を送れますように。
しかし。尽くせども、尽くせども、娘は死の淵を彷徨うばかり。
金と権力の力で風前の小さな焔をなんとか今日まで引き伸ばしてきた。
――いや、幸福な人生でなくてもいい。この子が生きてさえ居てくれれば、それだけで……
そうして幾度も季節を越え、娘はようやく8歳の誕生日を迎えた。年を経るにつれ彼女が熱を出すことも少し減ったような気がする。
その誕生日を祝福して、父はこの療養地キュートスに娘の為の屋敷を築いたのだった。
それからも将軍は愛娘に惜しみなく愛と贈り物を捧げた。とりわけ将軍はその若草の瞳を、妻の忘れ形見を愛していたために、イリスの部屋には今も美しい緑の贈り物で溢れている。
緑の壁、絨毯、ソファー、ベッド、そして着る宛てのないドレス……
娘の喜ぶことならば何でもしたかった。けれども、運命とは残酷で。娘の病弱は、近頃、目に見えて酷くなるばかりだった。
酷い風邪のような症状が長く続いている。イリスはいつだって「だいじょうぶよ、おとうさま」と優しく微笑むけれど、その裏で絶えず苦しんでいることを将軍は知っていた。
二度も神々に愛した人を奪われてなるものかと将軍は躍起になった。あらゆる都市国家(ポリス)から治癒魔導師を招き、新薬を試し、ある時には呪いを疑って祓い師にも会った。それでも娘は少し良くなっては、また病床へ戻る。その繰り返しだった。
治癒魔法は体力を資本とする。このままではいずれイリスの体力は尽き、魔法には頼れない日がやってくる……。
将軍は一縷の希望を賭けて『半神』の奇跡を縋った。
治癒を専門とするのは『太陽の半神』だが、その座は長らく空席となっている。であれば『智恵の半神』かあるいは『伝令の半神』か……ともかく、死に傾き続ける天秤を無理やり浮き上がらせるだけの力が父娘には必要だった。
けれど。神殿の煮え切らぬ検討を経てようやくやってきたのは『月の半神』だった。
「――閣下。『月の半神』様がご到着です、ご挨拶は――」
「後ででいいだろう、先にイリスのもとに連れていけ。はぁ……半刻も遅刻か。……くそ、あの役立たずめ……! 妻を奪って、今度は娘までもを奪う気か!?」
家令に指示を飛ばし、くしゃり、と書類を握り潰しながら将軍は顔を歪める。
神話曰く。月神は産褥に苦しむ婦人に救いの死をもたらすと言われている。実際に妻の死が月神によるものだったかは分からないが、将軍には少なからず思うところがあるのだった。
更に言えば、月神の権能は狩人や戦士などに向けられたものが大半で、治療の逸話はほとんど無い。例え半神がやってきたとしても、その権能で一体何ができると言うのだろう。
「(……悪役令嬢、だったか。どうせできもしない癖にわがままを言って手柄を立てようとしたんだろうさ。イリスの命は玩具じゃないんだぞ!)」
将軍の心境は既に限界だった。
癒えぬ愛妻の死、病み続ける愛娘、碌に役に立たない神殿。心労がじくじくと毒のように将軍の正気を苛む。
暫く経って、再び控えめな呼び声が響いた。
どうやら家令が戻ってきたらしい。生憎、物思いに耽っていたのでどれくらいの時間が経ったのかは分からない。
「閣下、『月の半神』様をお嬢様のお部屋までご案内致しました」
「そうか、ご苦労だったなヨルゴス。それで、月の半神サマは何と仰っていた?」
「それが……お嬢様の部屋を一瞥されて『緑だな』と呟かれたばかりで……」
将軍は家令に聞かせるように舌打ちをする。
――ほら見たことか、何もできやしないじゃないか。
「なんだその間の抜けた回答は。ただの感想じゃないか。っ……わかった、ヨルゴス。下がっていい。私はもうしばらくしてからお目通りする」
自ら出迎えをしなかったのも、こうして相手方を任せるのも、子供じみた反抗だった。
……分かっている、そんなことをしても意味のないことくらいは。けれどせずにはいられない。娘は今日明日死んでもおかしくない身の上だというのに、半神の道楽につき合わされるだなんて。
娘はそれでも神殿と半神を笑って許すだろう、だからこそ父親である自分が彼女の分まで怒る必要があった。
『だいじょうぶ』
大丈夫なわけがない。君は今この瞬間も苦しんでいるというのに。
『だいじょうぶよ、おとうさま』
なんて不甲斐ない父親なのか。財力も力もあるくせに、君に幸福な人生一つすら贈れないなんて。
好きだった本を一人では読めなくなった。
手足が痺れて震えてしまうから。
一緒に庭の散策もいけなくなった。
暫く立つことすら難しくなってしまったから。
あの咳の音を聞いたような気がして、胸が酷く痛む。
妻の忘れ形見。2人が一緒にいた証。一生をかけて守ると誓った小さくて白い手。
次は何をしてやれるだろう、と頭を悩ませる。
……いいや、違う。あと何回、彼女に何かをしてやれるだろうか、だ。
のろのろと書類決裁を推し進めた後、ようやく将軍は重い腰を上げた。嫌味の一つや二つ言ってやらねば気がすまない。それで咎められようと、もはやどうでも良い気分だった。
執務室の扉を押し開けて間もなく、廊下の角に大きな違和感があった。
午睡の日差しを受けて揺らめく洋館の果て。
白亜の壁に浮かび上がる、弓弦の様な美しい黒髪。
手にした小瓶を宝物のように握りしめて、望月の瞳は僅かに伏せたまま。
神官とも令嬢ともつかぬ奇妙な衣服は質素ながらも上品な仕立て。
物語から飛び出てきたような、ではあまりにも足りない。長らく過ごした生家であるはずの現実を、物語に塗り替えられてしまったような、そんな心地を抱かされた。
「(……月の半神に付き添ってやってきた神官、か……?)」
あまりにも遅いから、あの悪女に追い立てられて呼びに来たのかもしれない。それで、迷ってしまったのだろうか。
望月の瞳が将軍を射抜く。
何か声をかけねばと逡巡して。けれど喉から零れたのはその時間を無駄にするほどありきたりな言葉だった。
「……お嬢さん、月神の半神サマの控え室は南館だ。よければ侍女に案内させよう」
「――――――」
少女の望月がくるりと丸くなり、間もなく三日月に歪んだ。
「……いいや、『月神サマ』に言われて来たんだ。もう一度イリスお嬢様の容態をみてこいと。よければそっちに案内してくれ」
「はぁ……?」
第一声は大胆不敵にして不遜。美少女らしからぬ少年らしい口調に将軍は言葉を詰まらせた。
少女はその様子を気にもとめずに微笑んだ。
「――この事件の犯人は、存外、呪いでも病弱でもないかもしれないぞ?」
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