第2話 鮮緑1


車窓の外の景色に気を取られていたので、彼は、私が本を読み終えた事に気が付かなかった。


季節は巡り、時は初夏。一陣の潮風は白い岩肌を駆け巡り、タイムやローズマリーの香りを馬車の中まで届けてくれる。

暖かな初夏の日差しの中、私たちを乗せた馬車は療養地と名高いキュートスを進んでいた。


窓の外を眺める彼の横顔は、まるで旧友との再会を懐かしむようで。珍しいものを見たな、と私は暫く黙ってその様子を眺めていた。

けれど不意に彼が顔を上げるものだから、私は誤魔化すように、膝の上で閉じていた本を彼に手渡した。



「……ん。読み終わったぞ、エンディミオ。ありがとう」


「アルテミシア様、もうですか? 先日3冊買い足したばかりなのに……」


「私は勉強熱心な半神なんだ」



ふふん、と私はない胸を張った。仕事と神事の合間を縫って、学習を繰り返す日々をおよそ半年。

悪役令嬢の参考書は月の大神殿の本棚一つを埋めるに至り、各都では私を悪役令嬢と噂する者も多いと聞く。



「あー……それで、最近どうなんです。悪役令嬢の方は」


「なんか父親みたいだな……なんとなくだけど傾向と対策が分かってきたよ。それに何より面白い。そうだ……その本の主人公の名前はルーナと言うんだ。ルーナは月にちなんだ名前だろう? ちょっと運命を感じないか?」


「……俺の名前も月にちなんだ名前ですよ」


「そうだけど、そうじゃないんだよ。そうなんだけど」



そんな取り留めのない会話が交わされる中でも、馬車はゆっくりと石畳の上を進んでいく。

暖かな薫風が野花を揺らして野山を駆け巡れば、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえてきた。



「いいところだな、キュートスは」


「はい。水も綺麗ですし、空気もいいので療養地として有名ですよ。ほら、島の割には人も多いでしょう?」


「療養地とはもっと静かなところかと思っていた」


「ここはいわゆる市ですから。実際に人々が療養しているのはもっと山肌側になります。そちらはもっと静かで穏やかでしょうね」



言われて初めて気づく。赤青黄のおもちゃのような家々が並び立つ街の外――岩肌に目を凝らすと、隠れるように、眠るように、ぽつりぽつりと家の姿が見える。家というよりは屋敷と呼ぶのが相応しい。


エンディミオの諌める声を背に車窓から身を乗り出すと、暖かな風が頬を撫でた。その心地よさに、私は思わず欠伸を噛み殺す。



「アルテミシア様、少し横になられた方が……エフェシスからキュートスまで長い間箱詰めでしたし」


「いや……これくらいは。それに、疲れているのはエンディミオだって同じだろう」


「俺は都度休息を取らせていただいてますので。それに少なくとも移動中に二冊読破はしません」



私はエンディミオの言い分に苦く笑う。けれど彼が言うこともまた事実だった。


数日に渡る大移動――その事の発端は、やはり『美の半神』アグリッピナにある。

要は、彼女の嫌がらせの一環なのだ。

『太陽神(おとうと)不在の穴埋めは月神(あね)がするべき』という滅茶苦茶な言い分の元、我々は今、神殿が指定した各地の病人を慰問して回っている。



「(『月の半神は病人一人救えなかった』という悪評をばら撒く算段なんだろうな……)」



常識的に考えて、月の半神が病人にできることはほとんどない。

『月の半神』は安産の加護はできても治癒の権能は持たない。せいぜいできる事と言えば、こうして慰問をすることくらいだ。


ぎゅっと拳を握り込み、目を僅かに伏せたのは無意識のことだった。けれどエンディミオはそれを目敏く見留めた。



「……気を病まれることはないかと。あなたは半神であって治癒魔導師ではない。元より、神殿も『治せ』ではなく『慰問』と言っているではありませんか」



神殿は慰問(それ)だけでいい、と言う。重要なのは事案の解決ではなく、動いたという事実なのだ、と。

他の半神だってそう割り切って生きている。


――だから、ここからは自己満足だ。



「そうだけどさ……みんながさ、言うんだよ」


「え?」


「私を見たってだけで『ありがたい、ありがたい』『半神様に御目見えできるだけで至上の喜びです』って。怪我が治ったわけでも、苦しみが取り除かれたわけでもないのに、涙を流して喜ぶんだ。それを見てるとさ、なんだか自分自身に腹が立って……」


「……だから、じっとしてられない?」



正解、と私は頷く。するり、とエンディミオの手が伸びて私の髪を優しく撫でた。



「大層な事じゃないんだ。要は『何もできないで病人の手を握る』よりも『必死に勉強して多少の知識を齧った上で病人に会いに行く』方が気が楽だろ?」



それに、と付け加えて私は笑う。



「何でもかっこよく解決してしまうのが『悪役令嬢』というものだろう? 私の道楽がさ、ちょっとでも誰かの役に立つのならそれはいいことだよ」


「それで――貴方は――」



 

年端のいかぬ頃から、この少女神は誰に誇ることもなく、ただ弟神の不在を埋めるために懸命に医学を修め続けてきた。エンディミオがその事実を知ったのは身辺調査の最中のことだった。

神殿はそれを知った上で敬意を払うのではなく、こうして利用することを選んだ。


――そうやって、歯車の一つとしてしか見ていないから、自分(スパイ)に潜り込まれている事にも気付かないのだ、と。



エンディミオの複雑な心境を他所に、『月の半神』とその側仕えを乗せた馬車はやがて市を抜け、岩肌の麓にひっそりと佇む屋敷の前で足を止めた。


先に降り立ったエンディミオの手を借りて、馬車から地上へと折り立つ。



「っ……と、ありがとう。……ここが?」


「はい。『太陽の半神』の膝下、陽都デルファの将軍が愛娘のために築かせた別荘だそうです」



私はごう、と吹き抜けた潮風に目を細める。

移動の利便性を残しつつ、市から離れた閑静な山の麓。

そんな山嶺に寄り添うように佇む屋敷が一つ。

本日の慰問先――陽都デルファの将軍とその愛娘のための屋敷は、そのようにして佇んでいた。


今時、聖域でも珍しい豪奢な噴水のその下には、更に珍しい豊かな地脈が流れている。

キュートスの抱く霊山、そこから流れるこの豊かな地脈と癒しの力こそがキュートスを療養地たらしめているのだ。



「うん、本当にいいところだな。神殿もよく見えるし」



見上げれば屋敷の遥か後方の山、その頂に神殿がある。天を穿つように聳える朱い柱は太陽神に捧げられたものだ。蒼天に佇む神殿の佇まいは荘厳なれどもどこか空虚にも思える。


――20年も主人が不在なんだ、当然か。


半神(カミサマ)は何に祈ればいいのだろう。早く見つかればいいな、と私は祈る宛もなく独りごちる。


そうして私は物思いから離れ地上に目を戻すと、そこには先と打って変わって憤るエンディミオの姿があった。



「出迎え一つない、だと……? 御身はこの国の月、その半神だというのに……!?」


「忙しいんじゃないか?」


「まさか! 完全に舐められてますよこれ。クソ、帰ったら神殿に抗議を入れてやる……」



相変わらず大げさだなぁ、と私は笑った。

元より怒りなどは感じていなかったが、こうしてエンディミオが代わりに怒ってくれるのを見るとなんだか嬉しい気持ちになる。

憤るエンディミオの手を握りながら、私はそっと話題を逸らした。



「……あ、ほら。あそこに使用人さんがいるぞ。お話を聞いてみよう」



庭の一角で洗濯物を干す娘。年頃は10代後半くらいか。そばかすの可愛らしいお嬢さんだ。

洗濯物を懸命に干すその背に声をかけようとしたその瞬間。



「あっ……!」



急に吹いた突風に手を取られ、1枚の布が宙へ舞い上がる。布はそのまま潮風に誘われるように、高く高く、塀の外へ。



「エンディミオ」


「……はいはい、権能の使用を承認します」



エンディミオの声に、極めて自然に、しかし優雅に。言うが早いか、私は己の髪紐を解くとその突風の中に滑り込ませる。


――それは、瞬きの出来事。


たなびく黒髪と共に、先の布より高く舞い上がる髪紐。

それはただの革紐に過ぎず、そこには特別な能力も物語も存在しない。

けれども。そこに逸話を与えるのが半神の権能、その原初の在り方だ。


天高く舞い上がった革紐は、やがて陽光を遮って主人の顔に影を落とし――そして。

ばさり、と白い翼を広げて1羽の梟へと姿を変じた。



「ぇ……?」



娘は思わず息を呑み、干しかけの布を握ったまま眼前の奇跡に魅入られた。


昼空が奇跡に呑まれ、ほんの一瞬夜を纏う。

束の間の夜には梟の軌跡。箒星の如き一条の尾。

梟が羽撃く度に月の色をした翼が揺らめく。


――其は、神代の再演。今一度蘇る、月女神の神域。


梟が宙に揺蕩う布を攫い、主人の肩へと舞い戻る一刹那、娘は瞬きをすることすら忘れていた。

役目を終えた梟はやがて綾織の糸が解けるように崩れ落ち、最期に一本の革紐となって主人の掌へと戻る。

そうしてようやく、空に昼が返された。



「……っと。よし、お疲れ様。これは……膝掛けかな?」



手元の布に視線を落とす。

鮮やかな緑の良い手触りの布だ。両端には大ぶりの金刺繍が施され、一目で貴人の持ち物と分かる。ひざ掛けと呼ぶには少々サイズが小さいので子供のものかもしれない。



「……また緑ですか、今年はよく見ますね」


「今年の社交界の流行色だそうからな」


「……あのー! すみません、助けていただいて!」



パタパタと黒いエプロンドレスをはためかせ、小脇に洗濯物を抱えた使用人の少女が駆け寄ってくる。

困ったように眉を下げた少女は息を切らしながら顔を上げた。私はそんな彼女に声をかける。



「これはお嬢様のもの?」


「はい、そうです。その……将軍様が、お嬢様の瞳に似ているということで誂われて……」



それがなにか? と少女は不思議そうに首を傾げた。

物干し竿を見遣れば、天蓋に掛布に服に――様々なものが象徴的な鮮緑に染められ、風に揺れている。

なるほど、ここの家主は随分と娘を溺愛しているらしい。

 


「なるほど、じゃああれも? 随分たくさんあるんだな」


「はい。今日はいいお天気でしたので、お部屋のものを取り替えてお洗濯をと思って……」


「……いつから?」


「え?」


「この色を使い始めたのはいつ頃から?」


「え、ええっと……確か1年前くらい、だったでしょうか」



――1年前、か。


私は自分の表情が心なしか明るくなったことを自覚する。回収した布を軽く畳んで、ようやく私は使用人の少女に布を返却した。



「なるほど……わかった、ありがとう」


「いえ、とんでもありません。お礼を言われるようなことでは。あの……ええっと、お客様、ですよね。『月の半神』さま、ですか……?あの、『悪役令嬢』の?」



少女の瞳は好奇心に揺れている。僻地に住むとは言え――否、僻地に住んでいるからこそ、だろうか。

年頃の少女にとって噂話は重要な娯楽、その中心人物ともなれば舞台女優に等しい。


一方で、その無礼とも言える期待の眼差しを向けられた当事者はと言えば、一瞬言葉を失って。



「……エンディミオ、エンディミオ、エンディミオ!」


「はいはいよかったですね、御威信がここまで伝わっていて。……その通りだ。こちらは我らが月、その半神アルテミシア様だ。常であればご尊顔を拝謁するだけでも至上の栄誉。此度は慰問ということで、出迎えの件については――……ッ、あーもう! 顔! 顔! もっと威厳出して下さい」



ぴょんぴょん飛び跳ねたい私を片手で制しながら、エンディミオが堅苦しい口上を口にして、失敗した。

もみもみとほっぺを一通り揉みしだかれながら、私はきりっと彼を見上げた。



「エンディミオ、私たちは運がいいぞ」


「……ええそのようですね」


「さて、悪役令嬢らしくかっこよく『事件』を解決しにいこうか」

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