第5話 雨と鳥
幸一は静かに草をかじっていた。
胸の痛みは消えない。
それでも、お腹は何度でも減る。
生きるためには食べるしかなかった。
ぽつん。
一粒の水が葉っぱの上に落ちた。
幸一は顔を上げる。
ぽつん。
ぽしゃん。
空を見上げると、灰色の雲がゆっくりと広がっていた。
「雨……。」
人間だったころなら濡れるくらい何とも思わなかった。
けれど、
バシャッ!
大きな雨粒が体に当たり、幸一は草の上から転げ落ちた。
「うわっ!」
たった一粒の雨が、まるでバケツの水を浴びせられたような衝撃だった。
雨は次々と降り始める。
葉の上に落ちるたび、大きな音が響く。
地面には水たまりができ、小さな流れが草むらを走っていく。
幸一は必死に近くの葉の裏へもぐり込んだ。
それでも風が吹くたびに、冷たい雨粒が体を打つ。
(これが……雨。)
初めて知った。
人間には恵みの雨でも、トノサマバッタには命を奪う雨になることがある。
幸一は葉っぱの裏にしがみついた。
雨粒は容赦なく葉をたたきつけ、そのたびに葉っぱ全体が大きく揺れる。
冷たい水が風に乗って吹き込み、体はどんどん冷えていった。
幸一は必死に足へ力を込める。
ほんのわずかでも力を抜けば、雨に流されてしまいそうだった。
雨はなかなかやまない。
幸一には、それが何時間にも感じられた。
やがて、葉を打つ音は次第に弱まっていった。
大粒だった雨は細かな雨へ変わり、やがて一粒、また一粒と途切れていった。
雲の切れ間から、夏の日差しが草むらを照らし始める。
「助かった……。」
幸一は葉っぱの裏からそっと顔を出した。
ところが、思うように体が動かない。
足に力が入らないのだ。
「どうして……。」
幸一は何度も後ろ足に力を入れてみる。
けれど、いつものように高く跳ぶことができない。
体が冷え切っていた。
後ろ足に力が入らない。
日差しを浴びているうちに少しずつ体が軽くなっていく。
バッタは、体が温まって初めて元気に動ける生き物らしい。
幸一は日の当たる草の上になんとか身を移した。
ちょっとでも体を温めようと、じっと日差しを浴びる。
さっ――。
草むらが一瞬、暗くなった。
幸一の触角がぴくりと震えた。
大きな鳥が草の上すれすれをものすごい速さで飛び抜けていった。
その瞬間、幸一の触角がぴくりと震えた。体はもう逃げる準備を始めていた。
幸一は力いっぱい後ろ足を蹴り、草むらの上へ高く跳び上がると、夢中で羽を広げた。
背中の羽が激しく震え、体は風に乗るように宙へ浮かぶ。
(このまま飛べば逃げられる。)
一瞬、そう思った。
しかし、その考えはすぐに打ち砕かれた。
鳥は大きく旋回すると、一直線に幸一へ向かってきたのである。
草むらに隠れていれば見つからなかったかもしれない。だが、空へ飛び出した幸一の姿は、緑の草原の上ではあまりにも目立っていた。
飛んだことが、かえって鳥に居場所を教えてしまったのだ。
鳥は羽を大きく広げ、風を切る音を響かせながら一気に距離を縮めてくる。鋭く曲がったくちばしと黒く光る瞳は、幸一だけを狙っていた。
幸一は必死に羽を動かして向きを変える。
けれど、思うようには飛べない。
風に流され、体勢を立て直そうとするたびに、鳥との距離は縮まっていく。
くちばしがすぐ後ろをかすめ、羽先に冷たい風が当たった。
(このままじゃ食べられる……。)
そのとき、不思議なことに恐怖より先に翔太の笑顔が浮かんだ。
「パパ、虫取りに行こう!」
あの声が、胸の奥ではっきりと響いた。
まだ約束を守っていない。
まだ一緒に虫取りへ行っていない。
まだ「ごめん」とも言えていない。
こんなところで終わるわけにはいかない。
幸一は全身の力を振り絞った。
翔太と、もう一度虫取りへ行く。
その思いだけを力に、思いっきり後ろ足を蹴る。
体は今までで一番高く跳び上がった。
どこまでも、どこまでも高く。
見上げた空は、どこまでも青かった。
その青空に、大きな虹が静かに架かっている。
幸一は、その虹へ向かうように、ありったけの力で跳んだ。
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