第6話 翔太との約束

 ぱっと目が覚めた。


 幸一は勢いよく体を起こした。


 肩で大きく息をしながら、しばらく何もできずにいる。


 胸は激しく脈打ち、額にはうっすらと汗がにじんでいた。


 恐る恐る顔を上げる。


 白い天井。


 窓のカーテンから差し込む、やわらかな朝の光。


 どこからか小鳥のさえずりも聞こえてくる。


 幸一は辺りを見回した。


 隣では春が静かな寝息を立て、その向こうでは翔太が布団を抱きしめるように眠っている。


 その寝顔を見た瞬間、張りつめていた肩の力がすっと抜けた。


 幸一は自分の鼓動を確かめるように手を当てた。


 「あー。夢……か。」


 激しく打っていた心臓も、ようやく落ち着いていく。


 「そうだよな……。」


 苦笑いがこぼれた。


 「バッタになるなんて、あるわけないか。」


そうつぶやきながら、幸一は自分の両手を見つめた。


ゆっくりと指を開いたり閉じたりしてみる。


五本の指は思いどおりに動き、その感触にほっと胸をなで下ろした。


続いて恐る恐る頭へ手をやる。指先に触角が触れることはない。


さらに背中へ手を回して確かめると、あの硬い羽も薄い羽も、もうどこにもなかった。


幸一はようやく肩の力を抜き、布団を抜け出した。


 洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。


 鏡には、疲れた自分の顔が映っていた。


 頬を軽くつねる。


 「痛っ。」


 思わず苦笑いがこぼれる。


 「やっぱり夢だったみたいだ。」


 そう思いながら口をゆすごうとした、そのときだった。


 何かが奥歯に挟まっていることに気づく。


 「ん?」


 指で取ろうとしても、なかなか取れない。


 鏡に顔を近づけ、大きく口を開けた。


 奥歯には、小さな緑色の葉っぱが挟まっていた。


 幸一はそっとそれを取り出し、手のひらに乗せる。


 見覚えのある葉だった。


 昨日までなら、道端に生えていても気にも留めなかった草。


 それなのに、その葉を見つめた瞬間、口の中によみがえってきた。


 あの青くみずみずしい味。


 夢の中で何度もかじった、あの草の味だった。


 幸一は葉っぱを見つめたまま、しばらく動けなかった。


もし、あれが本当に夢ではなかったとしたら――。


ネズミに食べられていたかもしれない。


カマキリの鎌に捕まっていたかもしれない。


雨に打たれ、草むらで動けなくなっていたかもしれない。


そして、鳥のくちばしに捕まっていたのが、自分だったかもしれない。


幸一は葉っぱをそっと握りしめた。


胸の奥から、張りつめていたものがゆっくりほどけていく。


気づけば、深く息をついていた。


「それでも……。」


「ちゃんと帰ってこられたんだな。」


 その言葉が、誰に向けたものだったのかは、自分でも分からなかった。


幸一は寝室へ戻ると、翔太の枕元へそっと腰を下ろした。


小さな寝息が静かな部屋に響いている。


バッタになる前と変わらない、穏やかな寝顔だった。


幸一はしばらく何も言わず、その寝顔を見つめ続けた。


やがて、温かい思いが静かに込み上げてきた。


もう、「また今度」とは言わない。


トノサマバッタは、その日、その日を懸命に生きていた。


明日が来る保証なんて、どこにもない。


人もきっと同じだ。


もしかしたら、明日にはまたバッタになっているかもしれない。


だから、今だ。今しかない。


今、翔太と虫取りへ行こう。


「……パパ?」


「おはよう。」


幸一は優しく笑った。


翔太はまだ眠そうに目をこすりながら、不思議そうな顔をする。


「今日、まだお仕事行ってないの?」


返事ができなかった。


その何気ない一言に、幸一は言葉を失った。


朝には家にいない父親。


それが翔太にとって当たり前になっていたのだ。


幸一は翔太の目をまっすぐ見つめて笑った。


「翔太。今日、虫取りに行こう」


「えっ?」


翔太は目をぱちぱちさせた。


「ほんとに?」


「ああ。」


その返事を聞くと、翔太は勢いよく布団から起き上がった。


 「昨日もね、パパお仕事だったから、ママと虫取りに行ったんだ。」


 「そうだったね。」


 「すっごい大きいトノサマバッタを見つけたんだよ。」


 幸一は、どきりとした。


春が不思議そうに翔太を見た。


 「でもね、逃げられちゃった。」


 翔太は残念そうに笑う。


 「パパに見せたかったんだけどな。」


 幸一は思わず翔太を抱きしめた。


 「ごめんな。」


 その一言しか出てこなかった。


 翔太はきょとんとした顔で幸一を見上げる。


 その様子を見ていた春が、不思議そうに尋ねた。


 「今日は仕事休みなの?」


 幸一は笑って首を振る。


「仕事はあるよ。でも、翔太との約束を優先するよ。」


ひと呼吸置いて続けた。


「今日は、翔太との約束を果たしたいんだ。」


 そう言うと、翔太の頭を優しくなでた。


 春は目を丸くしたが、やがて静かにほほえんだ。


 「よかったわね。翔太。パパと虫取り行けるんだって。」


 翔太は飛び上がるほどうれしそうに叫んだ。


 「やったー!パパと虫取り行ける!」


 急いで虫取り網を取りに走っていく。


 その後ろ姿を見ながら、幸一は笑った。


 「さあ、準備して行こう。」


 「パパ、トノサマバッタがたくさんいる、とっておきの場所を知ってるんだ。」


 翔太は振り返ると、目を輝かせた。


 「ほんと!」


「ああ、本当だ。それに、トノサマバッタが好きな草も分かるぞ」


 親子は笑いながら玄関を出た。


 夏の朝の風が、二人の間を吹き抜ける。


 その風に揺れる草むらでは、トノサマバッタたちが二人を迎えるように、小さく跳ねていた。

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