第4話 虫取り

幸一は夢中で跳び続けた。


 カマキリの姿が見えなくなっても、止まることはできなかった。


 止まったら、また襲われる。


 そんな気がしていた。


 どれくらい跳び続けただろう。


 ようやく足を止めると、辺りはさっきまでいた場所とはまるで違っていた。


 草はまばらで、土がところどころ見えている。


 見渡しても、トノサマバッタの姿はほとんどない。


 さっきまでの楽園とはまるで別の世界だった。


 幸一は草の陰に身を寄せ、その場にうずくまった。


 「助かった……。」


幸一がほっとしたのも束の間だった。


「ママ! こっちにもいないよ。」


聞き覚えのある声に、幸一ははっと顔を上げる。


 虫取り網を持った小さな男の子が、草むらの中を歩いている。


 翔太だった。


 その後ろを、春が歩いてくる。


 「今日は虫さんが少ないね。夕方、雨が降るって天気予報で言ってたからかな。」


 春は草むらを見回しながら言った。


 翔太は残念そうに空を見上げる。


 「うん。いつもはもっとチョウが飛んでるんだけどな。」


 考えるように首をかしげると、翔太はふっと笑った。


 「パパがね、黄色いチョウは一ポイント、白いチョウは二ポイント、大きいチョウは三ポイントって決めたんだ。」


 「そうだったよね。」


 春も笑顔でうなずく。


 「どっちがたくさんポイントを取れるか、いつも勝負してたもんね。」


 「うん!」


 翔太は元気よくうなずいた。


 「ママは虫取りが苦手だから、その勝負はパパとしかできないんだ。」


「早く、またパパと勝負したいな。」


幸一の胸が熱くなった。


きっと翔太が本当に求めてたのは、虫を捕まえることでも、勝負に勝つことでもない。


ただ、自分と一緒に笑う時間だったのかもしれない。


(翔太……。)


今は、抱きしめること、話しかけることもできない。


それでも――。


(何か一つでも、翔太の力になりたい。)


幸一は、気づけば体が前へ跳んでいた。


(そうだ。あっちには大きなカマキリがいるぞ。)


 いつも図鑑を見ながら、「大きなカマキリを捕まえたいな」と話していたのを思い出した。


 幸一は必死に羽を震わせる。


 ギチッ、ギチッ。


 「あっちだよ。見てごらん。」


 そう伝えたいのに、人間の言葉にはならない。


 翔太はその音に気づき、ゆっくりと振り返った。


 「ママ!」


 翔太の目は幸一だけを見つめていた。


 (違うんだ、翔太。)


 (教えたかったのは、パパじゃないんだ。)


 翔太は、幸一を見つけると目を丸くした。


 「わあ!大きい!」


 「ママ、見て!すごく大きいトノサマバッタ!」


 春もしゃがみ込み、目を丸くした。


 「本当だね。こんなに大きいのは珍しいね。」


 翔太はうれしそうに虫取り網を構えた。


 「よーし!捕まえるぞ!」


 その姿を見た春は、足を止めた。


 「翔太!待って」


 「そんなに立派なトノサマバッタ、翔太にはちょっと難しいんじゃない?」


 「ママも捕まえられないから、やめといたら」


(そうだ、春。そのとおり。)


(今日はそのまま帰ろう。)


幸一は心の中で何度もうなずいた。


翔太は少しだけ考えた。


でも、首を振る。 


「ううん。パパに見せてあげたい。」


「パパ、こんな大きいトノサマバッタ見たことないと思うから。」


その一言が、幸一の胸に深く響いた。


翔太は虫取り網を握り直した。


いつものように勢いよく追いかけることはしない。


逃げられないように、一歩ずつ、そっと近づいてくる。


きっと翔太にとっても、こんなに大きなトノサマバッタを捕まえるのは初めてなのだ。


その姿を見ていると、幸一は思わず笑みがこぼれた。


(そんなに頑張ってくれてるんだな。)


(おとなしく捕まってやってもいいかも。)


「いくよ!」


翔太がそっと網を振り上げる。


その瞬間だった。


幸一の後ろ足に勝手に力が入り、体は本能のまま高く跳び上がっていた。


(違う……!)


(逃げたいんじゃない。)


幸一は必死に振り返ろうとした。


だが、後ろ足は止まってくれなかった。


遠くから翔太の声が聞こえた。


「あっ、逃げちゃった……。」


網を持ったまま、残念そうに立ち尽くす翔太の姿が小さく見えた。


バッタの体は、翔太から離れるように動き続けた。


本能のままに翔太から逃げた幸一は、草の陰へ身を潜めた。


まだ胸は激しく脈打っている。


けれど、それ以上に恐ろしかったのは別のことだった。


逃げようと思ったわけじゃない。


体が勝手に逃げたのだ。


(どうして……。)


幸一は自分の後ろ足を見つめた。


お腹がすけば草を探し、危険を感じれば考えるより先に跳び上がる。


少しずつ、自分の体はトノサマバッタになっていく。


そのとき、不意にある考えが頭をよぎった。


(もしかして……。)


(もう、人間には戻れないんじゃないか。)


朝から何度もそう願った。


目を閉じれば元に戻っているかもしれない。


もう一度眠れば夢から覚めるかもしれない。


けれど、どれだけ時間が過ぎても、自分はトノサマバッタのままだった。


幸一は目を閉じる。


もし、このまま人間に戻れなかったら――。


 ぐう……。


 また強い空腹が襲ってきた。


 悲しんでいる暇などない。


幸一の体は、本能のまま草を探し始めていた。


(こんなときまで、お腹が減るなんて……。)


幸一は苦笑しながら草にかじりつく。


悲しくても、怖くても、お腹は減る。


草を食べなければ、生きてはいけない。


それが今の自分だった。


むしゃ、むしゃと葉をかむ音だけが、静かな草むらに響く。


幸一は葉をかみながら、目を閉じた。


(人間の心だけは、忘れたくない……。)



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