地獄へようこそ、ジェシー

 母から渡された侯爵家からの婚約状はそのままだ。

 破棄する勇気も暖炉に投げ込む勇気もない。

 父は破天荒過ぎたが、私は逃げてばかりだ。


 スキャンダルから逃げ、

 エリーゼから逃げ、

 侯爵から逃げ。


 このままではエリーゼと仮面夫婦まっしぐら。しかもエリーゼと子供を……いや、それは無理。


 なぜ伯爵家当主の私がこんな風に弱気なんだ? 当主だよ? 毅然とすればいいじゃないか。嫌なものは嫌と言えばいい。何事からも逃げず、当主の務めは完璧にやり遂げる。

 議員連盟の会合へも行く。

 もうサボらない。

 当主としての自覚を持て。


 そうすれば周りは私を認めるだろうし、私がNOを突きつけても納得するはずだ。



※



 このところアイラは塞ぎ込むことが多く、食事は自分の部屋で済ませている。食事量は少なく、勧めても食べようとしない。


 この日は寺院の司祭との外せない会合があり、彼女を残して夜更けまで出かけていた。湖陵館に戻るなり、蜂蜜入りホットミルクとビスケットを持って彼女を見舞おうとしていたところだった。


「ジェシー様、夕刻のことですが、大奥様がいらっしゃる別邸で侯爵家のご令嬢を見かけた者がおります」


 ――という報告を執事から受けたのだ。

 嫌な予感がする。


「それは本当か?」

「別邸の様子と使用人を探るのに時間がかかりましたが、恐らくは。侯爵家のエンブレムはありませんが、見慣れない馬車が本日の午後到着したとのことです」

「なぜエリーゼ嬢が湖陵館に?」

「分かりません。本館の使用人は、ご令嬢の訪問については聞いていないようでした。別邸の事情は分かりにくいのです」

「……アイラが心配だ、彼女の部屋へ行く。ナット、付いて来い」


 ところが、部屋に彼女の姿はなく、彼女が大事にしていた人形の手足はバラバラになって床に転がっていた。床にはクシャクシャのナイトキャップ。


 何が起きた!?


 飾りテーブルの上には便箋が置いてあった。その隣には閉じられた封筒。宛名は……ランベール・ギーズ。



~ ~ ~ ~ ~

『ジェシー・ウエスト様


急なことで大変申し訳ありません。

わたくしアイラ・サウスは湖陵館から去り、サウス家へ帰ることにいたしました。

短い間でしたがお世話になりました。

あなたの幸せを祈っています。


アイラ・サウス』

~ ~ ~ ~ ~



「何だこの丸っこい文字? アイラ嬢は左上がり変態文字だったはず。それに、彼女は自分のことを『わたくし』なんて言わないぞ。ナット、どう思う?」

「……分かりません。しかし、体調が悪いのに遠いサウス家まで行けるはずありませんし、そもそも部屋の状態が……破壊された人形といい、どう見ても誘拐されたとしか……」

「侍女はどこへ行ったんだ!」


 そのときカーテンを揺らし、出窓から夜風が入ってきた。開きっぱなしの窓の外から、かすかに蹄と車輪の音がする。外を見ると、月明りに照らされて数人の影が別邸方向に消えるのが見えた。


「夜なのに馬車? ナット、急ぐぞ!」



※



 ガレージから小型馬車が一台消えていた。星が霞むほど月明りがまぶしいとはいえ、こんな夜中に馬車を出すとは!


「連れ去られたのかもしれない。蹄の音は裏街道からだ。馬を出すぞ!」


 このとき、馬が一頭消えていることには気付かなかった。


 湖陵館から伸びる道は表街道と裏街道があり、裏は丘陵地帯を南へ向かって伸びる悪路だ。余程のことがない限りここを使うことはない。南部地帯への近道だからときどき使うというだけだった。


(母の仕業だとしたら許せない! エリーゼも同罪だ! 侯爵家の令嬢だから今まで目をつぶっていたのに、我慢も限界だ!)


 夜とはいえ月明りで妙にまぶしかった。馬を駆って悪路を飛ばし、大森林の入り口に差し掛かると、森の中に一台の馬車が消えるのが見えた。


「止まれ!」


 私は馬車の前に躍り出て叫んだ。ナットが後方から馬車を挟み込む。


「と、当主様! なぜここに!?」

「お前こそなぜこんな夜中に馬車を出した!?」

「そ、それは……大奥様に……」


 御者に質問している間に、ナットが馬車のドアを開けた。


「ジェシー様、いらっしゃいました!」


 馬車の床に投げ出されたアイラは、嘔吐物が顔にかかったまま意識を失っていた。


「何ということだ!」



※



 ナットに御者と馬車をまかせ、コートで包んだ冷たいアイラを抱きながら馬を走らせた。『あ~』という、うなされた声がする。


 母とエリーゼの罪を明らかにすることは難しい。なにしろ貴族家内の事件に警察は介入したがらないから。これは内々に解決するしかない。


 湖陵館に戻り、アイラをベッドに寝かせると、私は執事に指示して母とエリーゼを別邸から出さないようにした。そこにはアイラに付けた侍女がいたらしい。昨年新しく雇った者だったのに。

 母にそそのかされたのか?


 ――もう、母を領外へ遠ざけるしかない。


 嘔吐物を取り除き、全身を清めてベッドに眠る姿は、首都にいたころよりもやつれていた。ときどきうなされては『あ〜』と声を上げて泣き出す。


(……すまない)


 平凡で幸せな家庭を夢見ているだけなのに、それがいかに難しいことか!



※



 昨夜の事件から二晩たった。アイラは相変わらず目を開けない。


「おはよう、アイラ」


 声を掛けてみた。


「あ〜、あ〜」〈怖い、パパ、ママ……どこにいるの?〉


 何かを恐れるように苦しんでいる。


「寒かったかな、毛布をもう一枚追加しよう」


 握っていたアイラの手を離し、厚めの毛布を掛けようとしたとき、名刺を載せたトレーを持った執事がやって来た。


「失礼いたします。当主様にお会いしたいという方がお見えです」

「誰だ?」

「ランベール・ギーズと名乗っております」


(ランベール・ギーズだと!? こんな最悪なタイミングで!?)


「アイラの部屋に医者を控えさせろ」


 私は階下に急いだ。



~~~~~~

☞ランベール、キテます。

~~~~~~

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