第7話「あおいの涙」
在宅の日。朝。
今日、あおいの様子がおかしかった。
いつもなら元気よく「おはよう」って言うのに、奥のテーブルでじっとプロテインドリンク見つめてる。
いつもは、店に入ってくるなり、トラと転げ回ってるのに。じゃらしを振り回して、笑ってるのに。今日は、ドリンクの表面を、ただ、見てる。
トラが何度もじゃらしを足元に運んでくるけど、あおいは反応しない。タマがカウンターからじっと見てる。モチも、レジ裏から顔だけ覗かせて、いつもより長く外を見てる。空気を読む猫たち。
◇
「あおい、どうしたの」
のどかが声かける。
「……なんでもない」
「嘘。顔に書いてあるよ」
トラがじゃらしを諦めて、あおいの膝に乗った。それでもあおいは動かない。トラが不思議そうに、あおいの顎に頭をこすりつける。
◇
「大会、来週でしょ」
のどかが言った。
「……うん」
「緊張してる?」
あおいは答えなかった。プロテインドリンクの容器を、両手で握ったまま。膝の上のトラが、顎の下から見上げてる。
「怖いんです」
ぽつりと落ちた。
「走るのが、怖い」
あの元気なあおいが。トラを抱き上げて、膝の上で丸まる形に抱え込む。
「また怪我したらって思うと。高校のとき三回も怪我した。今は治ってるけど、いつまた壊れるかわかんない」
◇
「走れなくなったら、どうしよう」
あおいの目から涙がこぼれた。トラのおでこにぽとんと落ちる。トラは嫌がって頭を振った。
「走れなくなったら、わたし何もなくなっちゃう」
のどかがあおいの隣に座った。何も言わずに、ただ隣にいた。
しずくも静かにあおいの向かいに座った。その手のひらが、迷いながら、あおいの手に重なった。クロがしずくの膝に飛び乗る。
◇
何を言えばいいかわからなかった。
「頑張れ」って言えばいいのかな。でもあおいは十分頑張ってる。
前に、あおいが言ってた。走ってるときの自分が、いちばん好きだって。
その、好きな自分を、失うのが怖いんだ。たぶん。
「怖いのは、当たり前だと思う」
気づいたら口が動いてた。
「大事なものがあるから怖いんでしょ。失いたくないから」
◇
「俺も怖いよ」
続けた。
「仕事で失敗するのが怖い。バグ出すのが怖い。レビューで指摘されるのが怖い。毎日、怖いことだらけ」
あおいが、顔を上げた。
「でも怖いってことは、真剣ってことだと思う。どうでもいいことは怖くならないから」
◇
「あおいさんは、走ることが好きなんですよね」
しずくが静かに言った。クロが喉を鳴らしてる。
「好きだから怖い。それってすごいことだと思います」
「すごい?」
「わたしの好きは、本だから。本は、逃げないので。失くすかもしれないのに好きでいるのは、すごいです。ちょっと、羨ましい」
◇
「あおいはさ、頑張りすぎなんだよ」
のどかが言った。
「いっつも全力で、いっつも一生懸命。すごいことだけど、たまには休んでもいいんだよ」
あおいの頭をぽんぽんと撫でる。トラも、あおいの腕を前足でぽんぽんと踏んでる。真似してるのかもしれない。
「怖いときは怖いって言っていいんだよ。泣きたいときは泣いていいんだよ」
◇
あおいが声上げて泣き始めた。
「怖い……走るの怖い……でも走りたい……」
「うん」
「怪我したくない……でも走りたい……」
「うん」
のどかはただ頷いてた。しずくも、自分も、何も言わずにそこにいた。
トラは、膝の上で、落ち着かなそうに耳を下げてた。でも、逃げなかった。
◇
あおいが立ち上がって、こっちのとなりに移ってきた。トラを抱えたまま。
肩に顔をうずめてきた。
泣いてる。髪がくすぐったい。涙がシャツに染みてくる。
体が震えてる。温かい。
膝の上のトラも、いつの間にかこっちに移ってきてた。あおいの温度とトラの温度が、両方伝わってくる。
何もできないけど、ただ、そこにいた。
あおいの震えが、少しずつ、おさまっていく。トラが、二人のあいだで、ちいさく喉を鳴らした。
何もしなくても、そばにいるだけで、いいときが、ある。たぶん、今が、そう。
◇
しばらくして、あおいが顔上げた。目は真っ赤だけど、どこか吹っ切れた顔。
「ごめんなさい、変なとこ見せて」
「変じゃないよ」
のどかが言った。
「むしろ、今のあおいの方がいいよ。いつもは強がってるから」
トラが、あおいの手に頭突きをした。慰めてるつもりなのか、もっと遊びたいだけなのか、判別がつかない。
◇
「頑張れとは言わないよ」
「でも、頑張ってるね、とは言える」
あおいがまた泣きそうな顔になった。でも今度は違う涙。
「ありがとうございます」
◇
「わたしも言います。頑張ってますね、あおいさん」
「のどかも。頑張ってるね、あおい」
あおい、三人の顔を順番に見て、小さく笑った。目尻にまだ涙が光ってる。クロが目で追ってる。
「なんか、恥ずかしいね」
「恥ずかしくないって」
◇
その日、あおいは朝練休んだ。
代わりに四人でゆっくり朝ごはん食べた。のどかが作ったトーストと温かいスープと、鶏ハム。猫たちもそれぞれの場所で、朝ごはんを食べてた。
あおいはまだ時々目をこすってた。のどかがナプキン渡してた。しずくは何も言わず、いつもより少し近くに座ってた。トラはあおいの足元で、あおいのスニーカーの紐にじゃれて遊び始めた。
湯気の立つスープ。焼きたてのトースト。あおいが、ひとくち食べて、「……おいしい」って、小さく言った。さっきまで泣いてた子が、もう、ちょっと笑ってる。
「こういうのも、いいね」
「たまにはね」
窓の外、朝日が昇り始めてた。
◇
PCを開く。今日は在宅だから、仕事はここでやるつもり。
Slackに田中さんから一件。「今日の午後、ちょっと設計相談入れていい?」
「大丈夫です」と返す。
あおいが画面を覗いてきた。
「え、仕事してるの?」
「在宅だから」
「ここで?」
「うん」
あおいの目が、ぱっと明るくなった。
「そうなんだ。じゃあわたしもここにいていい?」
「いてもいいけど、邪魔しないでよ」
「しないよ。邪魔なのはトラだし」
名前を呼ばれたトラが、カウンター越しにこっちを睨んだ。
◇
「来週、見に来てくれる?」
あおいが聞いた。さっきまで泣いてた目が、もう前を向いてる。
「もちろん……といいたいけど、平日だから。仕事次第になる」
「社会人だ」
あおいが笑った。
「無理なら無理でいいよ。結果は、ちゃんと報告するから」
「頑張れとは言わないけど」
「いい走りができるといいね」
あおい、にっこり笑った。
「うん。いい走り、してくる」
◇
Lo-fiが流れてる。
朝の光がテーブルに落ちてる。PCの画面と、朝ごはんの皿と、猫の毛。
怖いのは、消えないんだろう。でも、それでも走る。あおいは、そういう子だ。
まあ、こういう朝も、悪くない。
◇
つづく
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