第6話「しずくの夢」
本当なら在宅の日。でも今日は、有給をつけて一日休み。
しずくがいつもと違う本を読んでた。参考書。クロは膝の上で不満そうに尻尾を振ってる。
「珍しいね、勉強してるの」
のどかが声かける。
「公務員試験の勉強」
「司書って、公務員なの?」
「資格は、大学の授業で取れるの。でも図書館で働くには、市とか県の採用試験に受からないと。席、すごく少ないから」
「狭き門じゃん」
◇
コーヒー運ばれてきた。三人で一つのテーブル囲む。今日はあおいがいない。トラはあおい不在で暇そう。床でじゃらしを足の甲に乗せて、ぼーっとしてる。タマはカウンター。モチはレジ裏。
クロは参考書の端っこに前足を乗せて邪魔してる。
「こら、クロ」
しずくがクロをどかす。クロは一瞬離れるが、またすぐ戻ってくる。
「しずくが勉強してると嫉妬するの、この子」
「本のときは邪魔しないのに?」
「本は読み聞かせだと思ってるみたい。参考書は、わたしが集中してるのがわかるから」
「賢い」
◇
「なんで司書になりたいの」
のどかが聞く。
しずく、少し考えてから話し始めた。クロの背中を撫でながら。
◇
「小学生のとき、学校行けなかった時期があったの」
「え、しずくが?」
「いじめとかじゃなくて。ただ、行けなかった」
参考書閉じる。
「毎日家にいて、ぼんやりしてた」
◇
「そのとき、お母さんが図書館に連れてってくれたの」
「学校には行けないけど、図書館になら行けた。なんでかわかんないけど」
「静かだから?」
「たぶん。誰も何も聞いてこないし」
「猫もいない図書館なのに?」
しずくが、ふ、と笑った。
「当時は猫のことなんて考えてなかった」
◇
「本の匂いも、好きだった。古い紙の、少し埃っぽい匂い」
しずくの目が、少し遠くを見る。
「あそこにいると、時間が、ゆっくり流れてた。学校みたいに、急かされない。好きなだけ、いていい。そういう場所が、あの頃のわたしには、必要だったんだと思う」
◇
「最初に読んだのが『モモ』だった」
「ミヒャエル・エンデ?」
「知ってる?」
「昔読んだよ」
「あの本読んだとき、思ったの。本の中には時間があるって」
◇
「本は何も言わない。ただそこにある。でも読んでる人は、本の中に自分を見つける」
しずくの声、静かだけど確か。クロが、しずくの膝の上で、ちょっと頭を傾げた。
「図書館には、誰かを救えるかもしれない本が静かに並んでる」
◇
「だから司書になりたい。誰かが必要としてる本を、その人に届けられる人になりたい」
「かっこいいじゃん」
のどかが言う。
「そんなことない」
「いや、かっこいいよ。夢があるって」
しずく、ちょっと照れてる。耳が赤い。クロが、その赤い耳を気にしてるのか、鼻先を近づけた。
「くすぐったい」
しずくがクロの顔をそっと押しのける。
◇
「お兄さんは、なんで今の仕事選んだんですか」
考える。安定してるから。給料いいから。なんとなく。
「……正直、覚えてない。夢とか、なかったと思う」
しずくが、こっちを見た。責める目じゃなかった。
「でも、今からでも見つけられると思います」
しずくが言った。
「夢とは言わなくても。やりたいこととか」
少しだけ微笑む。
「本は、いつでも待ってますから」
◇
席を立つ。
「お兄さん、今日はお休みですか」
しずくが参考書を閉じながら聞いてきた。
「うん。有給」
「あの……よかったら、本屋に行きませんか」
「本屋?」
「新しい本が出てて。見てほしいのがあるんです」
◇
「いいよ」
「ほんとですか」
しずく、嬉しそう。いつもより少しだけ表情が柔らかい。
クロが、膝の上で抗議するように鳴いた。
「今日はちゃんと夕方に帰ってくるから」
しずく、クロに小さく約束してから、立ち上がった。
◇
店を出て、駅までの道を並んで歩いた。
しずくの歩幅は、思ったより小さい。合わせているうちに、こっちの歩く速度まで落ちた。急いでない歩き方を、久しぶりにした気がする。
◇
駅前の大きな本屋。二人で文芸コーナーを歩く。
本屋の匂い。インクと、紙と、なにか新しいものの匂いがする。平積みの新刊。棚に、ぎっしり並んだ背表紙。
しずくは、水を得た魚みたいだった。指で背表紙をなぞりながら、歩く。ときどき一冊抜いて、少し眺めて、また戻す。カフェで本を読んでるときより、もっと、生き生きしてる。
しずくが先を歩く。たまに振り返って、こっちを見る。
「これ。この作家さん、新刊出たんです」
「へえ」
「読んでみてください。きっと好きだと思う」
本を手渡してくる。指先が触れた。冷たい。
「どうして、これを?」
「お兄さん、伊坂幸太郎が好きって言ってたから。これ、ちょっと似てて、でも、もっと静かなんです」
よく覚えてる。前に一度、話しただけなのに。
◇
狭い通路。すれ違う人を避けて、自然と距離が近くなる。
しずくの肩が、こっちの腕に当たる。
「あ」
「ごめん」
「いえ……」
でもしずくは離れなかった。本棚を見上げる横顔。睫毛が長い。
◇
高い棚の本を取ろうとして、しずくが背伸びする。指先が、あと少しで、届かない。
「取ろうか」
「あ、すみません」
手を伸ばして取ってあげる。渡すとき、また指が触れた。今度はしずくの方が少しだけ長く触れてた気がする。
「……ありがとうございます」
しずく、本を胸に抱える。こっちを見上げてくる。近い。
◇
本を二冊買った。しずくのおすすめと、自分で見つけた一冊。
「一緒に選んでもらえて嬉しかったです」
「うん」
「彼氏は、本屋に付き合ってくれないから」
「……そっか」
◇
帰り道、二人で歩く。
しずくの手がこっちの手にかすった。偶然かな。
またかすった。偶然じゃないかも。
でも何も言わなかった。しずくも何も言わなかった。
◇
駅で別れた。
「また、カフェで」
「うん」
しずくが改札を通っていく。ちょっと振り返って、本を掲げた。読んでね、って意味かな。
◇
帰り道にある公園で本開いた。
散歩のとき、よく来る公園。ベンチが四つと、時計と、砂場。いつもは、なんとなく座って、なんとなく帰る。
いつもならスマホ見てる時間。でも今日は、本を読んでみた。
久しぶりの感覚。
ページを、めくる。文字を追ってると、周りの喧騒も、鳥や虫の鳴き声も、遠くなっていく。
本の中には、時間がある。しずくが、言ってたやつ。
◇
誰かが残してくれた時間。
公園で、その時間を受け取ってる。
指先に、しずくの冷たい体温が残ってる気がした。
◇
家に戻る。PCを開くつもりはなかった。今日は休み。
でもSlackだけ見た。田中さんから、軽いDM。「女の子とデートでもしてきたの?」
「え、なんで知ってるんですか」と返す。
「嘘。カマかけた」
やられた。
「怪しいとは思ってたけどね」
田中さん、勘が鋭い。
◇
Slackを閉じる。
買ってきた本を、ソファに並べる。しずくのおすすめと、自分で選んだやつ。
背表紙が二冊、並ぶ。それだけで、部屋が、ちょっとだけ、いつもと違って見えた。
Lo-fiが頭の中で鳴ってる。
まあ、本でも読むか。
◇
つづく
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