第3話「じゃらしと茶トラ猫」

三度目のカフェ。


今日は在宅の日。朝六時半。目覚ましより先に、目が覚めるようになった。


ここに来るの、ちょっと楽しみになってきた。



カランコロン。


「お、また来たね」


のどかが笑う。


窓際のソファにしずくがいつもの場所で本を読んでる。膝の上にクロ。目だけで会釈。小さく笑ってくれた。


カウンターにタマ。レジ裏にモチ。今日も四匹、それぞれの場所。


奥のテーブル寄りの床に、スポーツウェアの女の子。先週と同じ子。


今日は、茶トラの子猫と床で戦ってた。



じゃらしを大きく振る。茶トラが後ろ足で立ち上がって、前足でパンチ。


「おっ、いい動き!」


本気で褒めてる。


「あおい、朝練前にそれやって疲れない?」


のどかがコーヒーを持ってきながら声をかける。


「逆。トラと遊ぶと体が温まるの。ウォーミングアップ代わり」


「発想がえぐい」


トラ。あの茶トラ、トラというらしい。そのまんまだ。



あおい、ぐるぐるじゃらしを回してから、パッと手を止めた。


トラがその隙に飛びついて、じゃらしの先端を両手で抱え込む。後ろ足でキック、キック。


「獲物を仕留めた顔してる」


あおいが床に寝転がったまま、こっちを見上げて笑った。ポニーテールが崩れかけてる。息が弾んで、うっすら汗ばんでる。


「お兄さん、この子めっちゃいい反射神経してるよ」


「……へえ」


「見てて。投げるから」


じゃらしをふわっと投げる。トラ、空中で一瞬止まって、着地地点を計算してから、飛ぶ。


見事にキャッチ。


「ほらね」


「ほら、じゃねえよ」



「お兄さん、あの子陸上部なの。インカレ出るんだよ」


のどかが言う。あおいの方。


「へえ、すごいね」


「陸上部だけど、猫のほうが好きだよ」


「うるさい、のどか」


あおい、起き上がって、じゃらしをテーブルに置いた。トラが恨みがましい目で追う。



「そこ、座ってもいいですか」


「どうぞ」


あおい、カウンター席の隣に座る。ピンク色のプロテインドリンク持って。


「わたし、あおいっていいます」


「さっきのどかが呼んでた」


「あ、そっか」


あおい、照れたように笑った。日焼けした肌。白い歯。まぶしいな。



トラが諦めずに、カウンターに飛び乗ってきた。あおいの腕に頭突きしてる。


「はいはい」


あおい、慣れた手つきでトラを膝に乗せる。


「この子、猫じゃらしのバリエーションが増えないと満足しないの」


「バリエーション」


「羽のやつ、紐のやつ、鈴のやつ。全部うちの家にある」


「あおい、トラにおもちゃ貢ぎすぎ」


のどかが呆れた顔。


「いいじゃん、トラが喜ぶし」



「お兄さん、いつも在宅なんですか?」


「週一だけ出社。あとは在宅」


「えー、いいなあ」


「よくないよ。出社の日、結局いつも終電近くまでいる」


「そっちがブラックなのでは」


「古い癖」


「わたしも、練習大変です。朝練あるし、午後も走るし」


「なのに朝ここ寄ってるんだ」


「走る前にトラと遊ぶのがルーティン」


トラが尻尾を揺らす。あおいの太ももを爪で軽く踏む。



「でも、昔は走るの嫌いだったんです」


「え、そうなの」


「高校のとき怪我して。半年走れなくて。やっと治ったと思ったらまた怪我して」


数え方が軽い。三年のうちの一年以上を、走らずに過ごしたということだ。


「三回目のとき、もう辞めようって思いました」


「でも辞めなかった」


「はい。諦めなかったっていうか……諦められなかっただけ、かも」


「どういうこと」


「走れないとき、ずっと考えてたんです。なんで走りたいんだろうって」


あおい、窓の外を見る。トラがあくびをした。


「速くなりたいとか、勝ちたいとか、そういうんじゃなくて。ただ、走ってるときの自分が好きだったんです」



「走ってると、余計なこと考えなくなるんです。全部消えて、足音だけになる」


あおいの目がきらきらしてる。話しながら、興奮して身を乗り出してきた。


カウンター越しに、腕がぶつかった。


「あ、ごめんなさい」


「いや」


でもあおいは離れなかった。腕の体温が、じんわり伝わってくる。トラが膝の上で、両者を見比べてる。


「それがなくなるのが嫌だった。だから諦められなかった」



走ってるときの自分が好き。


へえ、と思った。


「お兄さんは、仕事してるときの自分、好きですか」


「……わかんない」


「そっか」


あおい、責めるでもなく頷いた。


「わかんないって、大事だと思います。嫌いって決めつけてないってことだから」



のどかがやってきた。


「何の話してたの」


「走る話」


「あー、あおいの得意なやつ」


「得意じゃないし」


「得意だって。走る話になると目キラキラするもん」


「してない」


あおい、恥ずかしそう。頬がちょっと赤い。トラは相変わらず膝の上で、前足で毛繕いしてる。


しずくが本から顔上げた。


「あおいさんの走る話、好きです」


「しずく、聞いてたの……」



朝定食の時間になった。のどかが三人分のトレイを持ってきた。


「はい、今日はオートミール。バナナと、はちみつと、豆乳」


「わたし、頼んでないけど」


「お兄さんも、頼んでないけど」


「いいの、今日はこれ。みんなお通し」


強引。でも、悪くない。



食べ始める。


「美味しい」


「でしょ?」


あおいがトラを床におろして、オートミールをがっつく。


トラはテーブルの下で、こっちの足に頭突きしてる。あおいの食い気に負けて、標的を変えてきたらしい。


「トラ、そっち行った?」


「うん」


「ごめん、お腹すくと誰にでもすり寄るの」


「お兄さんの膝、人気者だね」


のどか、カウンター越しにニヤニヤ。



「あ、お兄さん」


あおいが声をかけてきた。食後のドリンク飲みながら、こっち見てる。


「お昼、どうするんですか」


「え? まだ決めてないけど」


「よかったら一緒に食べません? 午後も走るから、練習前に栄養つけたくて」



「……いいよ」


「やった!」


あおい、ガッツポーズ。肩がぶつかってきた。膝のトラがびっくりして下に飛び降りた。


「駅の近くに、いい定食屋があるんです。十二時に、改札のとこでどうですか」


「わかった」


笑いながら腕を掴んでくる。指の力が強い。スポーツやってる人の手だな、と思った。


「絶対来てくださいね」


「行くよ」



七時半。あおいがスポーツバッグを担いで立ち上がった。


「朝練、行ってきます」


トラが入り口の手前までついていって、そこで立ち止まった。


「行ってらっしゃい」


のどかがカウンターから手を振る。



こっちも席を立った。


「お兄さんも帰るの?」


「一回帰って、仕事する」


「お昼、あおいと?」


「……なんで知ってんの」


「聞こえてた」


のどかが、にっと笑った。



家に戻って、ノートPCを開く。


午前中はコードを書いた。あの店のビートが、まだどこかで鳴ってる気がする。集中できてるのか、いないのか、自分でもよくわからない。


顔を上げたら、十一時半だった。



十二時。駅の改札前で落ち合った。


あおいはもう来てた。ジャージ姿。髪を結び直してる。朝より少し日に焼けて見えた。


「早いね」


「待つの、嫌いなんで」



定食屋。あおいはよく食べる。唐揚げ定食、ごはん大盛り。


「お兄さん、もっと食べなよ。細すぎ」


「余計なお世話」


「彼氏にもいつも言われるんですよね。もっと食え、筋トレしろって」


「……それはまた違う話じゃない」


「うん。お兄さんは押しつけないから、いい」


あおい、笑った。味噌汁に口をつけながら、こっちを見てる。



「お兄さん、なんかスポーツやってました?」


「中学のとき、テニス部」


あおいが箸を止めた。


「え、意外」


「意外って」


「ずっと座ってる人だと思ってました」


「今はずっと座ってるよ」



「強かったんですか」


「地区大会の一回戦で負けた」


「一回戦」


「一回戦」


あおい、笑いをこらえてる。こらえきれてない。



「でも、楽しかったんですよね」


「……どうだろう」


考えた。


放課後に練習があって、コートを走って、球拾いをして。それなりに、うまくはなったと思う。でも、試合にはほとんど勝てないまま、三年で終わった。


「嫌いじゃなかった、とは思う」


「じゃあ、高校は」


「入らなかった」


「大学も?」


「入らなかった」


「今は」


「なにも」



「もったいない」


あおいが、ぼそっと言った。


「そう?」


「体、動かすと、気持ちいいのに」


言ってから、あおいが、はっとした顔をした。


「……あ。ごめんなさい」


「なんで謝るの」


「今の、彼氏っぽかった」



「押しつけられた気はしないけど」


「ほんとですか」


「うん。走れって言われたわけじゃないし」


「言おうとはしました」


正直だな、と思った。



「じゃあ、猫にしときます」


「猫?」


「猫って、運動しないでしょ。寝たいときに寝て、動きたいときだけ動く」


「トラは動いてるけど」


「トラは別。あれは陸上部」



「タマは?」


「文化部」


「クロは」


「文芸部。しずくの膝で、ずっと本の隣にいるもん」


「モチは」


「帰宅部」


真顔で言うから、笑ってしまった。



「お兄さんは、どれだと思います」


「帰宅部」


「即答」


あおいが、こっちをじっと見た。



「……お兄さん、ちょっと猫っぽいですよね」


「猫」


「うん。どれって言われると、困るけど」


困ったまま、あおいは唐揚げをもう一つ食べた。



「今日、会議何時から?」


あおいがスマホ見ながら聞いてきた。


「え」


「エンジニアだって、のどかから聞いた。在宅中でしょ、今日」


「ああ、二時から」


あおいが、スマホの画面をこっちに向けた。一時ちょっと前。


「まだ余裕あるよ」


「ダメです。帰って、PC開いて、落ち着いてから始める。仕事、ちゃんとして」


あおい、急に動きが早くなる。自分のせいで会議に遅れたら困る、と思ったらしい。


「また彼氏っぽくなってる」


「これは違います。心配」


あおいが、ふん、と笑って、伝票を持って先に立ち上がった。



店の前で別れた。あおいはグラウンドのほうへ、こっちは家のほうへ。



家まで歩いた。会議まで、まだ一時間ある。


朝のトラのおもさと、あおいの腕の熱が、なぜかまだ手に残ってる。


歩いてると、いつのまにか、足がリズムを取ってた。あの店のビートみたいに。


まあ、いっか。



つづく

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