第3話「じゃらしと茶トラ猫」
三度目のカフェ。
今日は在宅の日。朝六時半。目覚ましより先に、目が覚めるようになった。
ここに来るの、ちょっと楽しみになってきた。
◇
カランコロン。
「お、また来たね」
のどかが笑う。
窓際のソファにしずくがいつもの場所で本を読んでる。膝の上にクロ。目だけで会釈。小さく笑ってくれた。
カウンターにタマ。レジ裏にモチ。今日も四匹、それぞれの場所。
奥のテーブル寄りの床に、スポーツウェアの女の子。先週と同じ子。
今日は、茶トラの子猫と床で戦ってた。
◇
じゃらしを大きく振る。茶トラが後ろ足で立ち上がって、前足でパンチ。
「おっ、いい動き!」
本気で褒めてる。
「あおい、朝練前にそれやって疲れない?」
のどかがコーヒーを持ってきながら声をかける。
「逆。トラと遊ぶと体が温まるの。ウォーミングアップ代わり」
「発想がえぐい」
トラ。あの茶トラ、トラというらしい。そのまんまだ。
◇
あおい、ぐるぐるじゃらしを回してから、パッと手を止めた。
トラがその隙に飛びついて、じゃらしの先端を両手で抱え込む。後ろ足でキック、キック。
「獲物を仕留めた顔してる」
あおいが床に寝転がったまま、こっちを見上げて笑った。ポニーテールが崩れかけてる。息が弾んで、うっすら汗ばんでる。
「お兄さん、この子めっちゃいい反射神経してるよ」
「……へえ」
「見てて。投げるから」
じゃらしをふわっと投げる。トラ、空中で一瞬止まって、着地地点を計算してから、飛ぶ。
見事にキャッチ。
「ほらね」
「ほら、じゃねえよ」
◇
「お兄さん、あの子陸上部なの。インカレ出るんだよ」
のどかが言う。あおいの方。
「へえ、すごいね」
「陸上部だけど、猫のほうが好きだよ」
「うるさい、のどか」
あおい、起き上がって、じゃらしをテーブルに置いた。トラが恨みがましい目で追う。
◇
「そこ、座ってもいいですか」
「どうぞ」
あおい、カウンター席の隣に座る。ピンク色のプロテインドリンク持って。
「わたし、あおいっていいます」
「さっきのどかが呼んでた」
「あ、そっか」
あおい、照れたように笑った。日焼けした肌。白い歯。まぶしいな。
◇
トラが諦めずに、カウンターに飛び乗ってきた。あおいの腕に頭突きしてる。
「はいはい」
あおい、慣れた手つきでトラを膝に乗せる。
「この子、猫じゃらしのバリエーションが増えないと満足しないの」
「バリエーション」
「羽のやつ、紐のやつ、鈴のやつ。全部うちの家にある」
「あおい、トラにおもちゃ貢ぎすぎ」
のどかが呆れた顔。
「いいじゃん、トラが喜ぶし」
◇
「お兄さん、いつも在宅なんですか?」
「週一だけ出社。あとは在宅」
「えー、いいなあ」
「よくないよ。出社の日、結局いつも終電近くまでいる」
「そっちがブラックなのでは」
「古い癖」
「わたしも、練習大変です。朝練あるし、午後も走るし」
「なのに朝ここ寄ってるんだ」
「走る前にトラと遊ぶのがルーティン」
トラが尻尾を揺らす。あおいの太ももを爪で軽く踏む。
◇
「でも、昔は走るの嫌いだったんです」
「え、そうなの」
「高校のとき怪我して。半年走れなくて。やっと治ったと思ったらまた怪我して」
数え方が軽い。三年のうちの一年以上を、走らずに過ごしたということだ。
「三回目のとき、もう辞めようって思いました」
「でも辞めなかった」
「はい。諦めなかったっていうか……諦められなかっただけ、かも」
「どういうこと」
「走れないとき、ずっと考えてたんです。なんで走りたいんだろうって」
あおい、窓の外を見る。トラがあくびをした。
「速くなりたいとか、勝ちたいとか、そういうんじゃなくて。ただ、走ってるときの自分が好きだったんです」
◇
「走ってると、余計なこと考えなくなるんです。全部消えて、足音だけになる」
あおいの目がきらきらしてる。話しながら、興奮して身を乗り出してきた。
カウンター越しに、腕がぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「いや」
でもあおいは離れなかった。腕の体温が、じんわり伝わってくる。トラが膝の上で、両者を見比べてる。
「それがなくなるのが嫌だった。だから諦められなかった」
◇
走ってるときの自分が好き。
へえ、と思った。
「お兄さんは、仕事してるときの自分、好きですか」
「……わかんない」
「そっか」
あおい、責めるでもなく頷いた。
「わかんないって、大事だと思います。嫌いって決めつけてないってことだから」
◇
のどかがやってきた。
「何の話してたの」
「走る話」
「あー、あおいの得意なやつ」
「得意じゃないし」
「得意だって。走る話になると目キラキラするもん」
「してない」
あおい、恥ずかしそう。頬がちょっと赤い。トラは相変わらず膝の上で、前足で毛繕いしてる。
しずくが本から顔上げた。
「あおいさんの走る話、好きです」
「しずく、聞いてたの……」
◇
朝定食の時間になった。のどかが三人分のトレイを持ってきた。
「はい、今日はオートミール。バナナと、はちみつと、豆乳」
「わたし、頼んでないけど」
「お兄さんも、頼んでないけど」
「いいの、今日はこれ。みんなお通し」
強引。でも、悪くない。
◇
食べ始める。
「美味しい」
「でしょ?」
あおいがトラを床におろして、オートミールをがっつく。
トラはテーブルの下で、こっちの足に頭突きしてる。あおいの食い気に負けて、標的を変えてきたらしい。
「トラ、そっち行った?」
「うん」
「ごめん、お腹すくと誰にでもすり寄るの」
「お兄さんの膝、人気者だね」
のどか、カウンター越しにニヤニヤ。
◇
「あ、お兄さん」
あおいが声をかけてきた。食後のドリンク飲みながら、こっち見てる。
「お昼、どうするんですか」
「え? まだ決めてないけど」
「よかったら一緒に食べません? 午後も走るから、練習前に栄養つけたくて」
◇
「……いいよ」
「やった!」
あおい、ガッツポーズ。肩がぶつかってきた。膝のトラがびっくりして下に飛び降りた。
「駅の近くに、いい定食屋があるんです。十二時に、改札のとこでどうですか」
「わかった」
笑いながら腕を掴んでくる。指の力が強い。スポーツやってる人の手だな、と思った。
「絶対来てくださいね」
「行くよ」
◇
七時半。あおいがスポーツバッグを担いで立ち上がった。
「朝練、行ってきます」
トラが入り口の手前までついていって、そこで立ち止まった。
「行ってらっしゃい」
のどかがカウンターから手を振る。
◇
こっちも席を立った。
「お兄さんも帰るの?」
「一回帰って、仕事する」
「お昼、あおいと?」
「……なんで知ってんの」
「聞こえてた」
のどかが、にっと笑った。
◇
家に戻って、ノートPCを開く。
午前中はコードを書いた。あの店のビートが、まだどこかで鳴ってる気がする。集中できてるのか、いないのか、自分でもよくわからない。
顔を上げたら、十一時半だった。
◇
十二時。駅の改札前で落ち合った。
あおいはもう来てた。ジャージ姿。髪を結び直してる。朝より少し日に焼けて見えた。
「早いね」
「待つの、嫌いなんで」
◇
定食屋。あおいはよく食べる。唐揚げ定食、ごはん大盛り。
「お兄さん、もっと食べなよ。細すぎ」
「余計なお世話」
「彼氏にもいつも言われるんですよね。もっと食え、筋トレしろって」
「……それはまた違う話じゃない」
「うん。お兄さんは押しつけないから、いい」
あおい、笑った。味噌汁に口をつけながら、こっちを見てる。
◇
「お兄さん、なんかスポーツやってました?」
「中学のとき、テニス部」
あおいが箸を止めた。
「え、意外」
「意外って」
「ずっと座ってる人だと思ってました」
「今はずっと座ってるよ」
◇
「強かったんですか」
「地区大会の一回戦で負けた」
「一回戦」
「一回戦」
あおい、笑いをこらえてる。こらえきれてない。
◇
「でも、楽しかったんですよね」
「……どうだろう」
考えた。
放課後に練習があって、コートを走って、球拾いをして。それなりに、うまくはなったと思う。でも、試合にはほとんど勝てないまま、三年で終わった。
「嫌いじゃなかった、とは思う」
「じゃあ、高校は」
「入らなかった」
「大学も?」
「入らなかった」
「今は」
「なにも」
◇
「もったいない」
あおいが、ぼそっと言った。
「そう?」
「体、動かすと、気持ちいいのに」
言ってから、あおいが、はっとした顔をした。
「……あ。ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「今の、彼氏っぽかった」
◇
「押しつけられた気はしないけど」
「ほんとですか」
「うん。走れって言われたわけじゃないし」
「言おうとはしました」
正直だな、と思った。
◇
「じゃあ、猫にしときます」
「猫?」
「猫って、運動しないでしょ。寝たいときに寝て、動きたいときだけ動く」
「トラは動いてるけど」
「トラは別。あれは陸上部」
◇
「タマは?」
「文化部」
「クロは」
「文芸部。しずくの膝で、ずっと本の隣にいるもん」
「モチは」
「帰宅部」
真顔で言うから、笑ってしまった。
◇
「お兄さんは、どれだと思います」
「帰宅部」
「即答」
あおいが、こっちをじっと見た。
◇
「……お兄さん、ちょっと猫っぽいですよね」
「猫」
「うん。どれって言われると、困るけど」
困ったまま、あおいは唐揚げをもう一つ食べた。
◇
「今日、会議何時から?」
あおいがスマホ見ながら聞いてきた。
「え」
「エンジニアだって、のどかから聞いた。在宅中でしょ、今日」
「ああ、二時から」
あおいが、スマホの画面をこっちに向けた。一時ちょっと前。
「まだ余裕あるよ」
「ダメです。帰って、PC開いて、落ち着いてから始める。仕事、ちゃんとして」
あおい、急に動きが早くなる。自分のせいで会議に遅れたら困る、と思ったらしい。
「また彼氏っぽくなってる」
「これは違います。心配」
あおいが、ふん、と笑って、伝票を持って先に立ち上がった。
◇
店の前で別れた。あおいはグラウンドのほうへ、こっちは家のほうへ。
◇
家まで歩いた。会議まで、まだ一時間ある。
朝のトラのおもさと、あおいの腕の熱が、なぜかまだ手に残ってる。
歩いてると、いつのまにか、足がリズムを取ってた。あの店のビートみたいに。
まあ、いっか。
◇
つづく
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