第2話「窓際の少女と黒猫」
一週間後。また在宅の日。
別に来ようと思ってたわけじゃない。でも、気づいたらこの道を歩いてた。
「喫茶 ローファイ」の看板。朝日でぼんやり光ってる。
◇
カランコロン。
「あ、来た」
のどかが手を振る。今日はゆるいニットにエプロン。カウンターの上にタマ。レジ裏でモチが薄目を開けて、また閉じる。
「やっぱり来ると思った」
「たまたま」
「はいはい」
◇
窓際のカウンター席に座ろうとしたら、先客がいた。
足元から、低い声。
「……にゃー」
見下ろすと、黒猫。まっすぐこっちを見上げてる。
◇
「あ、クロ。ごめんねー」
のどかが苦笑した。
「そこ、クロの通り道なの。お兄さん、ちょっとまたいで」
「またぐ?」
「いやまあ、どかす感じで」
クロは動かなかった。仕方ないから、足を大きく開いて跨いだ。
くぐった瞬間、クロがするりと通過した。しっぽが脛に当たった。
◇
クロは、窓際のソファに向かった。
そこには先週と同じ女の子。眼鏡。分厚い本。
クロが膝に飛び乗る。当たり前みたいな動作。
女の子の手が、本をめくりながら、もう片方でクロを撫でる。
ページと、猫と、それだけで手が足りてるらしい。
視線が合った。ぺこ、と小さくお辞儀してくれた。
◇
「しずく、もう慣れた? その人」
のどかがコーヒーを持ってきながら、しずくに声をかけた。
「え」
「先週も来てた人だよ」
「……覚えてます」
「覚えてるんだ」
「窓の外、ずっと見てた人」
◇
「しずく、毎朝ここで本読んでから大学行くの」
「朝型なんだ」
「勉強じゃないです」
しずくが言う。静かな声。
「好きな本を、読んでるだけ」
クロが、ふーっと息を吐いた。
◇
「お兄さんは本読む?」
「昔は」
「今は?」
「……読まなくなった」
いつからだろう。気づいたら。
◇
「昔は、どんな本を」
しずくが聞いてきた。身を乗り出す、と言いたいところだけど、膝の上にクロがいるから、あまり動けない。代わりに黒髪がさらりと揺れて、シャンプーの匂いがした。
「小説。ミステリとか」
「好きな作家は」
「伊坂幸太郎とか」
「いい作家ですね。わたしも好き」
しずくが少し笑った。初めて見る表情。
◇
しばらく本の話をした。
しずく、口数少ないけど、本の話になると少し饒舌になる。お気に入りの一節を見せようと、本を開いてこっちに差し出してきた。
クロが迷惑そうに体勢を変える。でも降りない。
指が近い。爪がきれいだな、と思った。
髪がさらりとかかって、ページの上に影を落とす。
のどかは途中で「お客さん来た」ってカウンターに戻った。
◇
「本って、不思議ですよね」
しずくがぽつりと。
「誰かが書いた言葉を、何年も経ってから、知らない人が読む」
「……うん」
「本は、誰かが残してくれた時間なんです」
クロが、膝の上で喉を鳴らし始めた。ゴロゴロ、ゴロゴロ。
◇
誰かが残してくれた時間。
いい言葉だな。
「変なこと言って、すみません」
「変じゃないよ。いい言葉だと思った」
しずくが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少し潤んでる。
◇
「お兄さん、また本読み始めたらいいのに」
「そうかな」
「はい。好きだったんでしょ?」
◇
「……最近、本読むのがつらくて」
「え」
「彼氏が、もっと実用的な本読めって。小説なんて時間の無駄だって」
◇
しずく、少し寂しそう。唇をきゅっと結んでる。クロの背中を、さっきより強めに撫でてる。
「それでいいと思うよ」
「……え?」
「好きなもの読めばいい。効率とか、気にしなくていいんじゃない」
◇
しずくが顔を上げた。
「……本当に?」
「うん。効率とか気にしてたら、疲れるだけだし」
「……ありがとうございます」
クロが、しずくの指を甘噛みした。
「痛っ。……こら」
でも、しずくの手は離れなかった。
◇
のどかが朝定食を持ってきた。
今日は和風のプレートじゃなくて、粥。梅干しと、茹でた鶏肉と、小松菜。
「体に優しいやつ」
「頼んでないけど」
「いいの。お兄さん、顔疲れてるから」
◇
食べ始める。
あたたかい粥が、胃に、そっと落ちていく。梅干しの酸っぱさで、目が、少し覚める。だしの効いた、やさしい味。
朝から、こんなにちゃんとしたもの、久しぶりに食べた気がした。いや、先週食べた、ここで。……一週間ぶりなら、久しぶりでいいか。
しずくも、いつの間にか、テーブルの上にトーストと紅茶を置いてた。クロが気になるのか、じっと見てる。
「クロ、ダメだよ」
しずくが低い声で言う。クロが耳だけピコッと動かす。でも動かない。
「この子、お行儀だけはいいから」
「お行儀?」
「食べ物、絶対取らない。匂いだけは嗅ぐけど」
「それはお行儀悪い気がする」
しずくが、ふふ、と笑った。
◇
粥を食べながら、しずくと本の話を続けた。
たまに目が合うと、すぐ伏せる。クロを撫でる手は止まらない。
のどかが遠くでにやにやしてるのが視界に入った。見なかったふりをした。
◇
七時過ぎ。席を立つ。
「また来ます」
自然と、そう言ってた。
「はい。また、本の話しましょう」
しずく、本を閉じてクロを抱き上げた。ゆっくり、そっと、ソファの上に置き直す。
「わたしも出ます」
◇
カフェを出る。朝の冷たい空気。
しずくも一緒に外に出た。マフラーに顔をうずめてる。
「お兄さん、これから会社ですか」
「今日は在宅」
「そうなんですか」
「でも、しずくさん、大学?」
「はい。午前中に授業が」
◇
しずく、ちょっと躊躇してる。マフラーの上から、目だけがこっちを見てる。
「あの……お兄さん、お昼って、家で食べるんですか」
「たいてい、適当に」
「もしよかったら、お昼一緒にどうですか。大学、近くなので」
「お昼?」
「この前見つけたお店があって。本の話、もっとしたいから」
◇
「……いいよ」
「本当ですか?」
しずく、いつもより少しだけ笑ってた。マフラーの下の頬が、寒さのせいか、ほんのり赤い。
「クロにも報告しておきます」
「クロ、気にする?」
「わたしが楽しそうにしてると、嫉妬するから」
冗談なのか本気なのか、わからなかった。
しずくはマフラーに顔を戻して、大学のほうへ歩いていった。
◇
家に帰って、PCを開く。
午前中はレビューを二本と、細かい修正。集中できたかというと、微妙だった。やたらと時計を見た。
十一時半に手を止めて、上着を取る。
◇
お昼、しずくの大学の近くで落ち合った。静かな定食屋。
しずくは向かいの席で、焼き魚定食を少しずつ食べながら話す。たまに目が合うと、すぐ伏せる。
◇
「クロ、拗ねてませんでした?」
「拗ねてました」
真顔だった。
「わたしが本を閉じて席を立つと、だいたい怒ります。背中を向けて寝るんです」
「わかりやすいね」
◇
「猫が出てくる本、多いんですよ」
しずくが箸を置いた。本の話になると、少しだけ声が変わる。
「そうなんだ」
「猫って、なんにもしないので」
「なんにも」
「はい。物語を、進めないんです。ただ、そこにいるだけ」
しずくが、少し間を置いた。言葉を選んでる。
「でも、いないと成立しない話が、けっこうあって」
◇
朝の店を思い出した。
タマも、クロも、モチも、なんにもしてない。でも、あそこから猫を抜いたら、ただの喫茶店だ。
「わかる気がする」
しずくが、ちょっと嬉しそうにした。
◇
「本読むとき、猫がいると邪魔じゃない?」
「邪魔です」
即答だった。
「腕の上に乗るので、ページがめくれません。指も噛みます」
「じゃあ、どかせば」
「どかしません」
◇
「なんで」
「……邪魔されてる時間も、読書のうちだと思ってるので」
味噌汁の椀を両手で持ったまま、しずくが少し笑った。
◇
「また行きましょうね」
「うん」
しずくと別れて、家に戻る。午後の会議に間に合う時間。
◇
Lo-fiが頭の中で鳴ってる。
今日のコーヒー、ちょっと甘く感じた。
家のノートPCを開く。Slackで田中さんから「午後のレビュー、大丈夫そう?」。
「大丈夫です」と打った。指先に、クロの毛の感触が、なんとなく残ってる気がした。
◇
つづく
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