第2話「窓際の少女と黒猫」

一週間後。また在宅の日。


別に来ようと思ってたわけじゃない。でも、気づいたらこの道を歩いてた。


「喫茶 ローファイ」の看板。朝日でぼんやり光ってる。



カランコロン。


「あ、来た」


のどかが手を振る。今日はゆるいニットにエプロン。カウンターの上にタマ。レジ裏でモチが薄目を開けて、また閉じる。


「やっぱり来ると思った」


「たまたま」


「はいはい」



窓際のカウンター席に座ろうとしたら、先客がいた。


足元から、低い声。


「……にゃー」


見下ろすと、黒猫。まっすぐこっちを見上げてる。



「あ、クロ。ごめんねー」


のどかが苦笑した。


「そこ、クロの通り道なの。お兄さん、ちょっとまたいで」


「またぐ?」


「いやまあ、どかす感じで」


クロは動かなかった。仕方ないから、足を大きく開いて跨いだ。


くぐった瞬間、クロがするりと通過した。しっぽが脛に当たった。



クロは、窓際のソファに向かった。


そこには先週と同じ女の子。眼鏡。分厚い本。


クロが膝に飛び乗る。当たり前みたいな動作。


女の子の手が、本をめくりながら、もう片方でクロを撫でる。


ページと、猫と、それだけで手が足りてるらしい。


視線が合った。ぺこ、と小さくお辞儀してくれた。



「しずく、もう慣れた? その人」


のどかがコーヒーを持ってきながら、しずくに声をかけた。


「え」


「先週も来てた人だよ」


「……覚えてます」


「覚えてるんだ」


「窓の外、ずっと見てた人」



「しずく、毎朝ここで本読んでから大学行くの」


「朝型なんだ」


「勉強じゃないです」


しずくが言う。静かな声。


「好きな本を、読んでるだけ」


クロが、ふーっと息を吐いた。



「お兄さんは本読む?」


「昔は」


「今は?」


「……読まなくなった」


いつからだろう。気づいたら。



「昔は、どんな本を」


しずくが聞いてきた。身を乗り出す、と言いたいところだけど、膝の上にクロがいるから、あまり動けない。代わりに黒髪がさらりと揺れて、シャンプーの匂いがした。


「小説。ミステリとか」


「好きな作家は」


「伊坂幸太郎とか」


「いい作家ですね。わたしも好き」


しずくが少し笑った。初めて見る表情。



しばらく本の話をした。


しずく、口数少ないけど、本の話になると少し饒舌になる。お気に入りの一節を見せようと、本を開いてこっちに差し出してきた。


クロが迷惑そうに体勢を変える。でも降りない。


指が近い。爪がきれいだな、と思った。


髪がさらりとかかって、ページの上に影を落とす。


のどかは途中で「お客さん来た」ってカウンターに戻った。



「本って、不思議ですよね」


しずくがぽつりと。


「誰かが書いた言葉を、何年も経ってから、知らない人が読む」


「……うん」


「本は、誰かが残してくれた時間なんです」


クロが、膝の上で喉を鳴らし始めた。ゴロゴロ、ゴロゴロ。



誰かが残してくれた時間。


いい言葉だな。


「変なこと言って、すみません」


「変じゃないよ。いい言葉だと思った」


しずくが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少し潤んでる。



「お兄さん、また本読み始めたらいいのに」


「そうかな」


「はい。好きだったんでしょ?」



「……最近、本読むのがつらくて」


「え」


「彼氏が、もっと実用的な本読めって。小説なんて時間の無駄だって」



しずく、少し寂しそう。唇をきゅっと結んでる。クロの背中を、さっきより強めに撫でてる。


「それでいいと思うよ」


「……え?」


「好きなもの読めばいい。効率とか、気にしなくていいんじゃない」



しずくが顔を上げた。


「……本当に?」


「うん。効率とか気にしてたら、疲れるだけだし」


「……ありがとうございます」


クロが、しずくの指を甘噛みした。


「痛っ。……こら」


でも、しずくの手は離れなかった。



のどかが朝定食を持ってきた。


今日は和風のプレートじゃなくて、粥。梅干しと、茹でた鶏肉と、小松菜。


「体に優しいやつ」


「頼んでないけど」


「いいの。お兄さん、顔疲れてるから」



食べ始める。


あたたかい粥が、胃に、そっと落ちていく。梅干しの酸っぱさで、目が、少し覚める。だしの効いた、やさしい味。


朝から、こんなにちゃんとしたもの、久しぶりに食べた気がした。いや、先週食べた、ここで。……一週間ぶりなら、久しぶりでいいか。


しずくも、いつの間にか、テーブルの上にトーストと紅茶を置いてた。クロが気になるのか、じっと見てる。


「クロ、ダメだよ」


しずくが低い声で言う。クロが耳だけピコッと動かす。でも動かない。


「この子、お行儀だけはいいから」


「お行儀?」


「食べ物、絶対取らない。匂いだけは嗅ぐけど」


「それはお行儀悪い気がする」


しずくが、ふふ、と笑った。



粥を食べながら、しずくと本の話を続けた。


たまに目が合うと、すぐ伏せる。クロを撫でる手は止まらない。


のどかが遠くでにやにやしてるのが視界に入った。見なかったふりをした。



七時過ぎ。席を立つ。


「また来ます」


自然と、そう言ってた。


「はい。また、本の話しましょう」


しずく、本を閉じてクロを抱き上げた。ゆっくり、そっと、ソファの上に置き直す。


「わたしも出ます」



カフェを出る。朝の冷たい空気。


しずくも一緒に外に出た。マフラーに顔をうずめてる。


「お兄さん、これから会社ですか」


「今日は在宅」


「そうなんですか」


「でも、しずくさん、大学?」


「はい。午前中に授業が」



しずく、ちょっと躊躇してる。マフラーの上から、目だけがこっちを見てる。


「あの……お兄さん、お昼って、家で食べるんですか」


「たいてい、適当に」


「もしよかったら、お昼一緒にどうですか。大学、近くなので」


「お昼?」


「この前見つけたお店があって。本の話、もっとしたいから」



「……いいよ」


「本当ですか?」


しずく、いつもより少しだけ笑ってた。マフラーの下の頬が、寒さのせいか、ほんのり赤い。


「クロにも報告しておきます」


「クロ、気にする?」


「わたしが楽しそうにしてると、嫉妬するから」


冗談なのか本気なのか、わからなかった。


しずくはマフラーに顔を戻して、大学のほうへ歩いていった。



家に帰って、PCを開く。


午前中はレビューを二本と、細かい修正。集中できたかというと、微妙だった。やたらと時計を見た。


十一時半に手を止めて、上着を取る。



お昼、しずくの大学の近くで落ち合った。静かな定食屋。


しずくは向かいの席で、焼き魚定食を少しずつ食べながら話す。たまに目が合うと、すぐ伏せる。



「クロ、拗ねてませんでした?」


「拗ねてました」


真顔だった。


「わたしが本を閉じて席を立つと、だいたい怒ります。背中を向けて寝るんです」


「わかりやすいね」



「猫が出てくる本、多いんですよ」


しずくが箸を置いた。本の話になると、少しだけ声が変わる。


「そうなんだ」


「猫って、なんにもしないので」


「なんにも」


「はい。物語を、進めないんです。ただ、そこにいるだけ」


しずくが、少し間を置いた。言葉を選んでる。


「でも、いないと成立しない話が、けっこうあって」



朝の店を思い出した。


タマも、クロも、モチも、なんにもしてない。でも、あそこから猫を抜いたら、ただの喫茶店だ。


「わかる気がする」


しずくが、ちょっと嬉しそうにした。



「本読むとき、猫がいると邪魔じゃない?」


「邪魔です」


即答だった。


「腕の上に乗るので、ページがめくれません。指も噛みます」


「じゃあ、どかせば」


「どかしません」



「なんで」


「……邪魔されてる時間も、読書のうちだと思ってるので」


味噌汁の椀を両手で持ったまま、しずくが少し笑った。



「また行きましょうね」


「うん」


しずくと別れて、家に戻る。午後の会議に間に合う時間。



Lo-fiが頭の中で鳴ってる。


今日のコーヒー、ちょっと甘く感じた。


家のノートPCを開く。Slackで田中さんから「午後のレビュー、大丈夫そう?」。


「大丈夫です」と打った。指先に、クロの毛の感触が、なんとなく残ってる気がした。



つづく

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