第二話 沼の主

 おちよは、山の中を歩いた。



 村人が薪を拾う山はここの辺りだ。


 山道には誰の姿もなかった。 蝉は鳴いている。 それなのに、鳥の声はしない。




 山道の木々は青々と茂っているのに、 足元の草だけが黄色く枯れていた。



 狐が一匹、 おちよの前を横切ると、 振り返ることなく山を駆け下りていった。




 ──獣が逃げている。

 水がないからかしら。







 昼時になり、おちよは

岩場の木陰に腰を下ろすと、乳母が作ってくれた握り飯の入った笹の包みを取り出した。



 食欲は、湧かない。


 握り飯を見つめていると、

乳母の言葉がおちよの耳の奥によみがえってきた。




『あなたには、生きて頂かねばなりません』



 ──ああ。生きて、帰りたい。

 そして、また……ばあやに会いたい。



 おちよは、瓢箪ひょうたんに入った水を飲んだ。



 少しの間、身体を休めると

おちよは再び歩き出す。




 ここから先は、普段は誰も寄り付かぬ山道だった。


 どんどんと進むにつれ、 風が止み

道脇の草は青々としていった。




 ──この辺りには、水があるようね。




 夕刻前。

 おちよはようやく、沼へと辿り着いた。


 水面は鏡のように静かで、風もなく、鳥の声さえもない。



 おちよは、背負い籠を下ろすと

膝と手を地面に着き、頭を下げた。




「沼の主様。 お約束どおり、村から参りました」



 返事はない。


 そこでおちよは、乳母の言葉を思い出した。


『大蛇に会ったら、沼にこの瓢箪を放ち……』



 おちよは籠から瓢箪を一つ取り出し、



 ぽちゃん。


 静かな水面へ投げ入れた。



 瓢箪はゆっくりと浮かんでくる。



 ……



 何も起きない。



 二つ目。


 ぽちゃん。


 三つ目。



 四つ目。




 すると、水面に小さな波紋が広がった。



 その時、沼の底から



『ごぽり』



と、大きな泡が一つ。



 次の瞬間、水面が盛り上がり、黒い巨体が姿を現した。




 おちよは再び、大きく頭を下げた。






「……何者だ」



「山下の村より参りました、おちよと申します。お約束通り、主様の元へ嫁ぎに参りました」



「……ちよ、おもてを上げよ」




 おちよは、ゆっくりと顔を上げた。



 まず、おちよの目に映ったのは、黒々と濡れた胴。その胴には岩のように大きな鱗がびっしりとあり、それは日に照らされても光を返さない。


 その全体はとぐろを巻くだけで、沼の半分を覆い隠してしまうほどの巨体であった。


 おちよがさらに視線をあげると、

鎌首をもたげた大蛇が長い舌をゆっくりと伸ばし、空気を味わうように揺れている。


 そして黄金のその両眼だけが、人のように静かにおちよを見つめていた。



 おちよは怯み、その大きさに恐れおののく。



 主は問うた。



「……そなたのよわいは」



「十五にございます」



「父母はおるのか」



「……幼少の頃に亡くなりました」



「誰に育てられたのだ」



「乳母のたまです」



「……」




 ──もしや、この娘は……いや、そんなはずはない。

あの村人たちは、父母のおらぬ十五の娘を一人、我に寄越したと言うのか。




 主は沼を一回りすると、

吐き捨てるように告げた。



「夫婦の契りを交わす」



 おちよは頭を下げて縋った。



「主様、ご無礼とは存じております。

一つ、わたくしめのお願いを聞いて頂けませんでしょうか」



「……なんだと?」



 ──この娘、生贄の分際で

我に何を望むというのか。



「戯言を申すな」



「主様、私は……村で一番愚かな娘でございます。 嫁ぐのであれば、最後に一つだけ、我が儘を申したく存じました」



 おちよは頭を上げなかった。



「……申してみよ」



 おちよは背負い籠の瓢箪を、沼へ投げた。



「この瓢箪を、全て沈めることができましたら

喜んであなた様の妻となりましょう」



 主は鼻で笑った。



「そのようなことを承諾する益なぞ、我にはない。くだらん」




 おちよは主を真っ直ぐに見つめた。



「昔から、浮くものは沈められぬと聞いて育ちました。 神様なら、それも叶えてくださると思ったのです」



 主は、ゆっくりとおちよを見据えた。



「…………よかろう」



 大蛇はとぐろを解き、

その大きな身体全体を使って、瓢箪を沈めていった。





 しかし───



 ぷかり。ぷかり。


 いつまで経っても、全ての瓢箪は沈まない。



 おちよは籠に残っていた最後の瓢箪を取り出した。



「主様、これが最後の瓢箪です」



 ぽちゃん。



 瓢箪を沈めようと沼の中を暴れ回っていた主は遂に力尽き、

沼のほとりへ、その頭蓋を休めた。



 乳母の言葉が、おちよの脳裏にぎる。



『あなたには、生きていただかねばなりません』



 おちよはすかさず、その頭蓋へ馬乗りになり

その黄金の両眼を、針で突いた。





 大蛇は、その巨体を大きく仰け反らせながら暴れ、沼の中へと沈んでいった。





 途端に、空が裂けたかと思うほどの大雨が降り始めた。



 おちよは背負い籠に葛籠つづらを入れ、振り返ることなく山を駆け下りた。

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