第15話 女神の神域を喰らったら3万6千の神兵が仲間になった


 黒い領域と、空を覆う青い海が衝突した。


 轟音はなかった。


 世界捕食界へ触れた海が、音もなく消えていく。


 いや、消えているのは水ではない。


 記憶を奪う青い光だけが剥がされ、ただの透明な雨となって大地へ落ちていた。


「アクアリアの神力を捕食しています!」


 メタトロンの解析術式が、かつてない速さで明滅する。


「《大母海》の侵食率、二・八パーセント。三・一、三・五……上昇中!」


「これなら勝てるんじゃないですか!?」


 エリナが声を上げる。


「いいえ。世界捕食界の拡大速度が低下しています」


「なんでだ?」


 ハルトが尋ねた。


「この領域は本来、内部に存在するすべてを捕食します。敵味方の区別がありません。ハルト様が我々を巻き込まないよう、無意識に出力を抑えています」


 黒い領域の中には、エリナたちがいる。


 人間と魔族の連合軍がいる。


 そして、神命から逃れた三万六千二百十一人の神兵がいる。


 全力で捕食すれば、アクアリアの神域だけでなく、仲間たちの魔力や能力上限まで奪いかねない。


『不完全な力ですね』


 アクアリアが両手を重ねた。


『守るものが増えるほど、あなたはその力を使えなくなる』


 空の海が渦を巻く。


 大陸を覆えるほど巨大な水の腕が生まれ、黒い領域へ振り下ろされた。


「全員、ハルトの後ろへ!」


 アダマスが前へ出る。


 黄金の盾が水の腕を受け止めた。


 衝撃で大地が揺れ、盾へ無数のひびが走る。


「また盾が割れてるぞ!」


 バルガスが叫ぶ。


「神々最強の盾ではなかったのか!」


「その上限は、そこにいる男に奪われた!」


「そういやそうだったな!」


「戦いの最中に納得するな! 少しは手伝え!」


「おう!」


 バルガスの大斧が、水の腕を横から叩き割る。


 飛び散った水が無数の兵士へ変わり、地上へ降り立った。


『その男から離れなさい』


 アクアリアの声が響く。


『そうすれば、あなたたちまで捕食されずに済みます』


 三万六千の神兵が、黒い領域の中でハルトを見た。


 彼らの胸には、エリナたちが貼りつけた紙が残っている。


 ――あなたは神に捨てられた。


 ――ハルトたちは、あなたを守った。


 個体七〇八が、一歩前へ出た。


「拒否スル」


『まだ地上の者に惑わされているのですか?』


「違ウ」


 個体七〇八は、自分の手で胸の紙を剥がした。


「今ハ、記録ヲ読ンダカラデハナイ。私自身ガ、ココニ残ルト決メタ」


 その背後で、一人の神兵が翼を広げる。


 さらに一人。


 十人、百人、千人。


 三万六千対の翼が、黒い領域を囲むように開いた。


「我々ハ、神ノ道具デハナイ!」


 光がつながり、巨大な白い輪となる。


「メタトロン!」


 エリナが振り返った。


「神兵の光とアクアリアの神力、見分けられませんか!?」


「個別では困難です。しかし、全員が同じ意思を示したことで、神命術式との波形差が発生しました」


「つまり?」


「敵だけに印をつけられます」


 メタトロンが両手を広げる。


 青い海と水の兵士へ、赤い術式が浮かび上がった。


「捕食対象を共有。第二神アクアリアの神力、神域、命令術式を敵性存在として指定します!」


「ハルト!」


 エルシアが聖剣アストラを振るう。


 青い海と地上の水をつないでいた無数の流れが断ち切られた。


「普通の水と、アクアリアの力を分けた! 今よ!」


「分かった!」


 ハルトが両手を地面へつく。


「世界捕食界――対象限定!」


 黒い領域が爆発的に広がった。


 仲間たちの足元をすり抜け、赤い印がついた神力だけを飲み込んでいく。


 水の兵士が崩れる。


 空の海から青い色が失われていく。


「《大母海》侵食率、二十パーセント! 三十五! 五十を突破!」


 初めて、アクアリアが大きく後退した。


『あり得ません……神の領域を、地上の個体が書き換えるなど』


「一人じゃない」


 ハルトが答える。


「俺だけなら、敵と仲間を分けられなかった。みんながいたからできた」


『ならば、そのつながりから洗い流します』


 アクアリアの両目が青く輝く。


 残された海が一本の光となり、ハルトだけへ降り注いだ。


「ハルト、避けて!」


『原初の洗礼』


 光がハルトを包んだ。


 世界捕食界の拡大が止まる。


「ハルト様の記憶へ強制干渉!」


 メタトロンが叫ぶ。


「能力覚醒以降の経験が、すべて巻き戻されています!」


 魔王ノクスとの戦い。


 エルシアやメタトロンとの出会い。


 エリナ、バルガス、リリアと過ごした時間。


 それらが、ハルトの中から次々と流れ落ちていく。


 やがて青い光が消えた。


 ハルトはゆっくりと立ち上がり、周囲を見回した。


「……ここは、どこだ?」


「ハルト?」


 エリナが息をのむ。


「俺の名前を知ってるのか?」


「本当に、忘れたんですか……?」


『成功しました』


 アクアリアが微笑みを取り戻す。


『今のあなたは、能力へ目覚める前の荷物持ち。何の力も持たない、レベル0の人間です』


 水の刃がエリナへ向けて放たれた。


 次の瞬間。


 ハルトの姿が消えた。


 大地を蹴っただけで水の刃へ追いつき、拳で粉々に打ち砕く。


『……なぜ?』


 アクアリアの声が止まった。


「ハルトさんは、能力がなくてもずっと鍛えてたんです」


 リリアが笑った。


「荷物持ちだった頃から、誰よりも」


「俺は、この人たちを知ってるのか?」


 ハルトがエリナへ尋ねる。


 エリナは鞄から紙を取り出し、大きな文字を書いた。


 ――あなたは黒鉄ハルト。


 ――私たちは、あなたの仲間。


 ――あなたは、仲間を絶対に見捨てない。


 ハルトは紙を読み、背後を振り返った。


 自分を信じている人間たち。


 見覚えのない魔王と反逆神。


 そして、三万六千人の神兵。


「これ、本当か?」


「はい」


 エリナはまっすぐ答えた。


「あなたは、そういう大ばかです」


「そうか」


 ハルトは再びアクアリアへ向き直った。


「なら、見捨てるわけにはいかないな」


『記憶がないのに、なぜその者たちを信じられるのです!』


「分からない」


 ハルトは拳を構えた。


「でも、俺の身体がこいつらを守れって言ってる」


 足元の黒い領域が、再び脈動した。


 記憶を失っても、ハルトの選択は変わらない。


 その意思に応えるように、無限捕食がアクアリアの洗礼へ食らいついた。


 奪われた記憶が、青い光から一つずつ取り戻されていく。


「思い出した」


 ハルトの目に、黒い光が宿る。


「エリナは、俺のことを大ばかって呼ぶ」


「もっと大事なことを思い出してください!」


「それと、みんなは俺の仲間だ」


「そっちが先です!」


 ハルトが駆けた。


 アクアリアが無数の水槍を生み出す。


 バルガスが斧で道を開き、ノクスの闇が女神の動きを縛る。


 アダマスの盾が、仲間へ向かう攻撃を受け止めた。


「個体七〇八!」


 エルシアが叫ぶ。


「あの胸にある青い光が、神域の中枢よ!」


「了解!」


 個体七〇八は、一度捨てた神槍を拾った。


 今度は命令されたからではない。


 自分の仲間を守るために。


 三万六千の翼から放たれた光が、一本の神槍へ集まる。


「コレガ、我々ノ選択ダ!」


 神槍がアクアリアの神域中枢を貫き、青い光を空中へ縫い止めた。


『私の子供たちが……私へ逆らうなど!』


「子供じゃない」


 ハルトが女神の目の前へ到達する。


「こいつらは、自分で選べる仲間だ!」


 拳が青い中枢へ突き刺さった。


 世界捕食界が一気に収束する。


 空を覆っていた《大母海》が、中心から黒く染まっていく。


【無限捕食――発動】


【第二神アクアリアの水流支配上限を捕食】


【記憶干渉上限を捕食】


【神域成長上限を捕食】


 青い海は、穏やかな雨となって魔界へ降り注いだ。


 記憶を奪う力は、もう残っていない。


 アクアリアの身体が水へほどけ、地上へ落ちる。


 ハルトはその腕をつかみ、静かに大地へ降ろした。


『なぜ……私を消さないのです』


「まだ話が終わってないからな」


『私は、あなたたちの自由を奪おうとした』


「だったら次は、奪わないほうを選べばいい」


『神である私が、選び直す……?』


「神だって、間違えたらやり直せばいいだろ」


 アクアリアは答えなかった。


 ただ、初めて命令でも慈愛でもない、戸惑った表情でハルトを見ていた。


 空から、最後の青い光が消える。


 第二神アクアリア。


 敗北。


 個体七〇八が、三万六千の神兵を代表してハルトの前へ立った。


「我々ニハ、モウ帰ル天界ガナイ」


「そうだな」


「ダガ、新タナ主人ニ従ウツモリモナイ」


「そのほうがいい」


 ハルトは笑った。


「命令するの、面倒だからな」


「そこは格好よくまとめてください!」


 エリナのツッコミが飛ぶ。


 個体七〇八は初めて、わずかに笑った。


「我々ハ、貴方ニ従ウノデハナイ。貴方ト並ンデ戦イタイ」


「分かった」


 ハルトは右手を差し出した。


「じゃあ今日から、仲間だ」


 三万六千対の翼が、一斉に広がった。


 地上から、人間と魔族の歓声が上がる。


「待ってください」


 エリナだけが青ざめていた。


「この方たち、全員ギルドへ登録するんですか?」


「駄目なのか?」


「三万六千人分の書類を、誰が処理すると思ってるんですか!」


「エリナ?」


「第十五話の最後に現実的な問題を持ち込まないでください!」


 そのときだった。


 魔界の空に、再び天界の門が開いた。


 歓声が止まる。


 門の向こうに立っていたのは、神ではない。


 黄金の聖剣を持つ勇者。


 かつてハルトを荷物持ちと呼び、勇者パーティーから追放した男だった。


 その背後には、見覚えのある仲間たちが並んでいる。


 全員の瞳に、神命を示す金色の輪が浮かんでいた。


『第二管理計画ヲ開始』


 第一神ゼノスの声が響く。


『神託勇者パーティーニ、神級危険個体・黒鉄ハルトノ処分ヲ命ズル』


 勇者は聖剣を抜き、ハルトへ突きつけた。


「ようやく見つけたぞ、ハルト」


 かつての仲間は、冷たい目で告げた。


「魔王と手を組み、神を喰らった裏切り者め。今度こそ、お前を追放する」


 聖剣に、天界の光が集まる。


「――この世界から」

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